投稿者:無冠 投稿日:2016年 9月13日(火)07時41分57秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2008-8-9 【ドクター部・白樺会・白樺グループ合同研修会】

■ 一、尊き研修、まことにご苦労さま!
 ドクター部、そして白樺会、白樺グループの皆さん、全国の各地から集われ、お疲れさまです。
 どれほど多忙で、遠くであっても、信行錬磨の場へ駆けつけてくる。その心が尊い。
 「心こそ大切」──ここに信仰の極意がある。
 人に真心を尽くす。受けた真心は大切にする。私はそれを、厳格に実行し抜いてきたつもりである。
 私は、お世話になった方々のことは絶対に忘れない。写真のように、その光景を覚えている。

● 師弟不二は尊極の結合
 一、学会の、永遠の勝利の基盤を築く。そのために今、私は全力を挙げている。
 「大作は、俺が何を考えているか、全部、分かっている」と戸田先生は言われた。
 私は先生と二人、将来の構想をさまざまに語り合ってきた。ご構想は、ことごとく現実のものとしてきた。一番大事なのは格好でも建物でもない。
 「師弟」の心である。どんな立派な建物を残そうが、この根本を聞違えたら大変だ。

 一、私は、「師弟」という一点、戸田先生に尽くし抜いたという一点だけは胸を張ることができる。
 私は、今回のアメリカ・デューイ協会からの「終身名誉会員」をはじめ、皆さんを代表して、世界から3200を超える顕彰をいただいた。
 これも、大学を断念し、青春のすべてをかけて戸田先生にお仕えした功徳と思っている。一つ一つ、牧口先生、戸田先生に捧げる思いで拝受してきた。
 師弟の道には、少しの”疵”もあってはならない。どんなに一生懸命、戦ったとしても、毛筋ほども慢心があれば、もはや、それは「不二」ではない。
 師弟とは、それほど峻厳な世界である。
 戸田先生は言われた。
 「自分が偉くなったように思うものがあるが、それは、慢心を起こすもとである。ゆえに、気をつけなくてはならぬ」
 「偉くしてあげた人間が皆、いざという時、逃げていった。恐ろしいものだ」「驕り高ぶった人間はいらない」
 先生は、社会的地位の高い人間ほど、厳しく戒めておられた。
 「本来は、人を救う立場にありながら、反対に人をみくだし、利用している輩も多い」
 大切な皆様だからこそ、あえて言い残しておきたい。
 ともあれ師匠とは、弟子に自分以上に偉大になってもらいたいと思い、手を尽くしてくれる存在である。
 その恩に報い、尽くしていくのが弟子の道である。
 私はその道を貫いてきた。
 「師弟不二」に流れるこの尊極の結合を、知性光る皆様は知っていただきたい。

● 人に尽くす人こそ尊貴
 一、博士はこうも言われた。「医術に必要なのは、何よりもまず、医師が助けを求める患者の声に人間味に富んだ反応を示すことである」(同)
 患者にとって、医師や看護師に「人間として」温かく接してもらえることが、どれほどの安心になるか。
 ご承知の通り、私は幼いころから病気との闘いだった。ゆえに、患者の気持ちは人一倍分かる。
 戦時中、東京・蒲田の新潟鉄工所で働いていた時、倒れた私に、ある中年の看護師さんが、本当に親身になってくださった。今でもその人のことは忘れられない。ずっと感謝の題目を送らせていただいている。
 軍需工場での過酷な労働、厳しい軍事教練に、結核の私はとうとう倒れて、医務室に担ぎ込まれた。
 その時、看護師さんは「ちゃんとした病院で診てもらいましょう」と早退の手続きをとり、病院まで付き添ってくださった。
 庶民には車など考えられない時代である。私は看護師さんに励まされながら、ゆっくりゆっくり病院まで歩いていった。
 彼女は転地寮養を勧めてくれ、病院でも、鹿島の療養所に行くことを命じられた。そして、ベッドの空きを待っているうちに終戦となったわけである。
 暗い時代であった。私には、戦争と病気という死の影が付きまとっていた。その中で出会った人の優しさが、どれほど希望になったことか。
 私は戸田先生の言葉を思い出す。「地位とか名声とか、それが何だというのだ! 大事なのは、一人の人間としてどうかだ。人々のために何をやったかではないか!」
 私も本当にそう思う。学歴や肩書ではない。人に尽くしている人が尊いのである。
 古代ギリシャの詩人ホメロスが「医者というものは(中略)他の者幾人にも価する」(松平千秋訳『イリアス(上)』岩波文庫)と綴ったように、人の命を預かり、救う人たちの使命と誇りは大きい。

■一、本年の悔いなき総仕上げへ、いよいよ新たな出発である。
 同志の中へ飛び込んで、仲良く、どこまでも仲良く、励まし合って進むのだ。
 学会活動は、福運をつくる源泉である。
 同志を心から讃えていくのだ。そこに喜びが広がる。新しい人材が集まってくる。
 いい人生を、ともに生きよう!
 広宣流布の大きな原動力となって、偉大な歴史に残る一生を飾っていただきたい。

● 命こそ絶対の宝
 一、近代看護の母・ナイチンゲールは言った。
 「私たちに必要なものは何でしょうか。すべての根底に高い主義をもつことです」(浜田泰二訳『ナイチンゲール書簡集』山崎書店)
 「命こそ絶対の宝」との信念を貫くドクター部、白樺の皆さんは、生命讃歌の心であふれている。
 何度も大病を克服された、アメリカのカズンズ博士は、ご自身の体験をこう綴っておられる。
 「私は決して、自分の回復に看護婦の人たちが果たしてくれた大きな役割をおろそかにするつもりはない。入院中に一番感銘深かったのは、実にそのことである。あの人たちの知識と深い思いやりと力ぞえとがどれだけ病気克服の助けになったかしれない」(松田銑訳『生への意欲』岩波書店)
 慈愛の看護に励む白樺の友は、自身の人間革命を根本に、他の人にも人生勝利の力を引き出すのだと、戦っておられる。
 どれだけ多くの人々が勇気づけられ、救われたことか。
 心から讃え、感謝申し上げたい(大拍手)。

● 「少少の難はかずしらず」
 一、広宣流布は、生命の尊厳を踏みにじる「魔」と、生命を最大に尊厳あらしめる「仏」との大闘争である。
 御本仏の日蓮大聖人御自身が、命を付け狙う魔軍との戦いの連続であられた。。
 「関目抄」には「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書200ページ)と仰せである。
 その「四度の大難」の一つが「松葉ケ谷の法難」であった。
 それは、大聖人が「立正安国論」をもって、鎌倉幕府の最高権力者を諌暁なされた翌月、文応元年(1260年)の8月27日の夜中であった。
 鎌倉の松葉ケ谷に構えられた大聖人の小さな草庵を、数千人とも、また数万人とも言われる多数の暴徒が襲撃した。
 それは、「立正安国論」で呵責された後、幕府の要人や坊主らが結託して、こともあろうに、御本仏の殺害を企てた陰謀であった。
 「国主に用いられない法師であるから、殺しても罪はない」と、念仏者や群衆を使って大挙して押し寄せたのである。
 小さな草庵は、防ぎようもない。
 しかし、大聖人は、この絶体絶命の法難も厳然と免れられた。
それは、なぜか?
 この「松葉ケ谷の法難」について残されている御書の記述は、数少ない。
 そのなかでも、こう仰せである。
 「権勢をもつ者どもが寄り集まり、町人等を集めて、数万人の者が夜中に草庵に押しかけ、日蓮を亡きものにしようとした。しかし、十羅刹女の御計らいであろうか、日蓮は、その難をのがれたのである」(同1294ページ、通解)
 ここに、「十羅刹女の御計らい」とは、まことに甚深の一節である。
 「十羅刹女」は、法華経に登場する十人の女性の諸天善神である。

 一、法華経の陀羅尼品において、十羅刹女は、仏の御前で、母たちの代表ともいえる鬼子母神らとともに、声をそろえて、誓願を立てた。
 「世尊よ。我れ等も亦た法華経を読誦し受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す」
 法華経の行者を、衰えさせたり、患わせたりする魔の働きは、断じて許さないというのである。
 彼女たちの烈々たる誓願は続く。趣意は次のようになる。
 「悪党どもよ! お前たちが私の頭に乗って、踏みにじろうとも、それは、まだいい。
 しかし、法華経の行者を悩ませることは許さない。夢の中でさえ、行者を悩ませはしない!」
 「もしも、妙法の説法者を悩ませ、乱すならば、その者は頭破作七分(頭破れて七分に作る)の大罰を受ける。
 妙法の師を犯す者は、父母を殺す罪や、提婆達多の破和合僧の罪のごとき大罪を得ることになる」と。
 このように叫んだのが、十羅刹女であった。十羅刹女には、生命論的に重要な意義がある。

 一、その十羅刹女の計らいがあればこそ、松葉ケ谷の法難を乗り切ることができたと、御書には仰せなのである。
 さまざまな説があるが、この御文からは、たとえば、ある女性の門下が、事前に襲撃の陰謀を察知して、急いで大聖人に知らせて、お護りした──とも推察できよう。
 乙女であったのか、それとも婦人であったのか──。
 それは、人知れぬ、そして、命を賭した名もなき女性の戦いであったかもしれない。
 いずれにしても、最も正しい法華経の行者を、断固として守る。それこそが、現実に法を守ることである。
 正法の指導者がいなければ、「立正安国」もない。「広宣流布」もない。「令法久住」も、絶対にありえないからである。
 だからこそ諸天善神は、広宣流布を成しゆく正義の師の厳護を誓ったのである。
 その誓いは、大聖人の法難の折々に、厳然と果たされてきたといってよい。

● 無名の庶民が広布の師を厳護
 一、この松葉ケ谷の法難の翌年、伊豆流罪の折も、船から上がって苦しんでおられた大聖人を、真心込めてお世話した無名の庶民がいた。
 船守弥三郎と、その妻である。
 連祖は、この夫妻に最大に感謝されながら、「法華経を行ずる者を、諸天善神等は、あるいは男性となり、あるいは女性となり、形を変えて、さまざまに供養して助ける」(御書1445ページ、通解)と示されている。
 諸天善神といっても抽象的な存在ではない。それは、現実の人間の具体的な行動としても現れるのである。
 佐渡流罪の折も、権力者の厳しい監視のなか、命がけで大聖人のもとへ食事をお届けした、阿仏房と千日尼の夫妻がいた。
 大聖人は、干日尼に「ただ日蓮の亡き悲母が佐渡の国に生まれ変わったのであろうか」(同1313ページ、通解)と言われている。
 大聖人の御遣命通りに広宣流布を成し遂げゆく仏意仏勅の創価学会の歴史においても、いざという時、一心不乱に師匠を護り、同志を護り、学会を護り抜いてきた崇高な女性たちがいることを、深く知らねばならない。
 そして、そのなかでも、模範の中の模範の存在が、白樺の皆様方なのである。
 また、女性ドクター部の方々なのである。

● 変毒為薬の仏法
 「十羅刹女の誓願には「諸の衰患を離れ、衆の毒薬を消せしむべし」ともあった。
 それは、病魔をも打ち破る力、妙法を唱え弘めゆく人に健康と安穏をもたらす力である。
 有名な「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは(障)りをなすべきや」(御書1124ページ)との御文の後には、こう記されている。
 「十羅剃女は、法華経の題目を持つ者を守護すると経文にある」「十羅剰女のなかでも、皐諦女の守護がとくに深いことであろう」(同ページ、通解)と。
 皐諦女の名は「幸諦」とも書く。大聖人は「皐諦女は本地は文殊菩薩なり」(同778ページ)とも仰せである。
 大いなる力用を発揮しながら、どんな所にあっても、法華経の行者を守護していく。いかなる病魔も災いも、変毒為薬して幸福へと導いていくのである。
 まさに、白樺の皆さんが凛然と立ち上がり、正義の心をだれよりも燃やして、人々の幸福のために進んでいかれる姿にも通ずる。そのスクラムの拡大こそが、希望の拡大、健康の拡大なのである。
 なお、かつて大聖人が「松葉ケ谷の法難」や、「竜の口の法難」を受けながら戦われた鎌倉にも、“安心と希望のセンター”として、素晴らしい文化会館が誕生した。
 さらに、「竜の口」に立つSGI教学会館には、海外の友が勇み訪れ、力強く前進する地元の同志と有意義な交流を重ねている。
 大聖人が、どれほどお喜びであろうか(大拍手)。

● 誠心誠意で治療
 一、生命の究極の法理を説き明かし、一切衆生の苦悩を除きゆく仏は、「大医王」と讃えられる。
 大医王たる釈尊の弟子には、「医聖」と謳われる名医・耆婆(ぎば)がいた。この釈尊と耆婆の師弟については、さまざまなエピソードが残されている。
 そもそも、この師弟が出会ったきっかけは、どのようなものであったか。
 仏典によれば、医学を修めた若き耆婆は、故郷・マガダ国に帰って、医師としての活躍を開始した。
 当時、マガダ国の都(王舎城)では、頻婆舎羅王(びんばしゃらおう)をはじめ多くの者が、釈尊に帰依していた。ゆえに耆婆も、釈尊のことを耳にする機会は、たびたびあったと考えられる。
 しかし、耆婆は当初、自ら進んで、釈尊に帰依するには至らなかったようだ。
 そうした時、幼少時代からお世話になっていた一人の女性から、耆婆が”釈尊の教えに親しんでいない”ことを、鋭く責められたのである。
 当代随一の医術を持つ耆婆の生命の奥底に、正しい教えを求めようとしない慢心があることを、女性の慧眼は鋭く見抜いたのではなかろうか。
 耆婆も、さすがである。自らを思いやってくれての指摘に、感じるところがあったようだ。
 「このようなことを自分に教えてくれて、ありがとう」と女性に感謝を述べた。そして、自ら釈尊のもとへ向かい、教えを受けるようになったと伝えられている。
 こうして、釈尊と耆婆の師弟の出会いは実現したのである。
 以来、耆婆は、釈尊の体が不諷の時には、誠心誠意を尽くして治療に当たった。
 ある時は、”釈尊には、転輪聖王(全世界を統治するとされる理想の王)が服用するような最高の薬を調合するのだ”との思いで、薬をつくり、師のもとに届けた。
 また、釈尊の健康を考え、栄養を補うための「滋養食」をつくって、供養したこともあるとされる。
 弟子・耆婆は、仏法への求道心を深めながら、釈尊に仕え、その健康を護った。
 師匠・釈尊は、耆婆が人間として、医師として大成していくための薫陶を惜しまなかった。それは、まことに麗しい「師弟の絆」であった。

● 同志を見下すな
 一、愛弟子を善導するための師の訓練は、厳しかった。
 耆婆が自宅に、釈尊とその弟子たちを食事に招いた時のことである。
 釈尊は、弟子の修利槃特(すりはんどく)が来ていないことに気がつき、耆婆にこのことを尋ねた。
 耆婆は答えた。
 ──修利槃特は愚鈍であると聞いているので、招待する必要はないと思いました、と。
 釈尊は、耆婆の心に巣くった傲慢な命を見抜いて戒めた。
 ──皆、かけがえのない尊貴な弟子ではないか。それがわからず、仏弟子を見下す者こそ愚かであり、自分自身を傷つけているのだ。
 釈尊は、その場に修利槃特を呼び、地道な修行によって、見違えるように成長した修利槃特の姿を耆婆に見せた。
 驚嘆した耆婆は、自らの非を心から悔い、修利槃特に謝ったのである。
 有徳の人と聞けば尊敬するが、愚鈍の人と聞けば見下してしまう──。
 釈尊の指導は、こうした耆婆の傲慢な心を打ち破り、人間生命に平等に慈愛を注ぐという、医師のあり方の真髄を教えるものであったといってよい。
 耆婆は、師の厳しい指導もまっすぐに受け切っていった。だからこそ、真実の「医聖」「医王」となり得たのであろう。

● 社会で実証を
 一、耆婆には、卓越した才能があった。その実力は、釈尊という偉大な師と巡り合い、弟子の道を歩み通すなかで、見事に発揮されていったのである。
 耆婆は、マガダ国の大臣も務めるなど、社会においても大きく活躍した。
 また、提婆達多にたぶらかされて釈尊を迫害した権力者・阿闍世王を敢然と諌め、仏法へと導いている。
 御書には「阿闍世王の眷属五十八万人が、仏弟子に敵対している中で、ただ耆婆大臣だけが仏(釈尊)の弟子であった」「(阿闍世は)耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われなかったが、最後には他の六大臣の邪義を捨てて、耆婆の正法につかれたのである」(御書1160ページ、通解)と仰せである。
 医師として、病魔から師匠の生命を護る。
 仏弟子として、仏法を破壊する敵とは敢然と戦い抜く。
 そして、社会で見事な実証を示し、師匠の正義を宣揚する。
 これが、釈尊の真実の弟子である耆婆の生き方であった。
 この耆婆を、大聖人は「後世の医師の師の存在である」(同1479ページ、通解)と仰せになられた。
 わがドクター部の皆様も、医師としての「正しい道」、そして師弟の「正しい道」を歩み通していただきたい。
 そして、後世の人々から模範と仰がれる、堂々たる勝利と栄光の歴史を残していただきたい(大拍手)。

● 「法華経の命を継ぐ人」に
 一、大聖人は記されている。
 「たとえ殿(=四条金吾)の罪が深くて地獄に堕ちられたとしても、その時は、日蓮に『仏になれ』と釈迦仏がどんなに誘われようとも、従うことはないでありましょう。あなたと同じく、私も地獄に入りましょう。
 日蓮と殿とが、ともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も地獄にこそおられるに違いありません」(同1173ページ、通解)
 さらにまた、金吾にこうも仰せである。
 「あなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである」(同1169ページ、通解)
 「師弟不二」の心とは、これほどまでに深いものなのである。そして、これが学会の師弟の原浬でもある。
 牧口先生と戸田先生、戸田先生と私は、この師弟の原理のままに歩んできた。
 だからこそ、だれ人も想像できない、今日の世界的な創価学会を築き上げることができた。
 今こそ、師匠の命を継ぎ、仏法の命を継ぎ、学会の命を継ぎゆく、真の後継者が躍り出る時だ。
 ドクター部・白樺の皆さんは、十羅刹女の誓願、また耆婆と四条金吾の師弟の闘争に連なる方々である。
 ともどもに、末法万年尽末来際のために、この世で最も尊極な「師弟不二」の勝利の劇を、厳然と残しゆくことを決意し合いたい(大拍手)。