投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 4月20日(水)17時28分49秒   通報 編集済
■勇気と誠実で同志に希望を

戸田先生は指導しておられた。
「中心者がしっかりせよ!
なんといっても、まず責任を持つ自分自身が、どう戦うか。
それが何よりも大切だということを、自覚しなければならない」

どんな戦いも、中心者で決まる。

リーダーは、皆を激励するにしても、真実の勇気が光る話をしなければならない。表面だけ飾ったような、つくったような話では、友の心を動かすことはでさない。

またゲーテは、こう訴えていた。
「人間、つねに積極的にふるまわなければならない、つねに新しく建築し、他人をおとしめることにかかずらってはならない」(同)

どこまでも明るく、前へ、前へと進む。新たな建設へ挑みゆく。
皆様は、勇気と誠実の振る舞いで、多くの人々に希望を贈る存在であっていただきたい。(大拍手)。

法華経は、数々の胸打つドラマに彩られている。
その一つに「化城宝処の譬え」がある。

――宝のある場所(宝処)を目指して、険しい遠路を隊商が進む。途中で人々は疲れ果て、「もう進めない」と言う。しかし、引き返せば、これまでの苦労が無駄になる。

導師は神通力によって城(都市)をつくり、「あの城に入れば安穏になれる」と励ます。歓喜した人々は、前進して城に入る。
十分の休息をとったことを確認した導師は、その城を消し去る。そして、城は幻であり、真の目標である宝処は近いと説く――
こういうあらすじである。

■共に宝処へ!

この譬えについて、御義口伝では、次のように教えられている。

「南無妙法蓮華経と唱える日蓮の一門は、一同に『皆、共に宝処に至る』のである。この『共』の一字は、日蓮と『共』に進む時は必ず宝処に至る。『共』に進まないならば阿鼻大域(無間地獄)に堕ちるということである」(御事734㌻、通解)

わが師と共に――この一念で、広宣流布へ進む人は、すでに胸中で勝っているのだ。

仏法は厳しい。
大難が襲いかかってきた時に、師匠の恩を忘れ、妻切るならば、峻厳な報いを受ける。

反対に、広布の師弟共戦は、晴れ晴れとした、永遠の幸福勝利の道なのである。

戸田先生は厳しく言われていた。
「師匠の戦いに後れをとるようでは、大聖人の仏法の真髄はわからないぞ!」

「師匠を師匠として認識できないような、失敗の人生にだけはなるな!」

この恩師の叫びを、未来を担うリーダーは、深く魂に刻みつけていただきたい。

真の信仰者には〝難こそ誉れ〟である。
仏法は、いかなる宿命をも転換できる幸福の大法である。生命を根底から変革する力がある。民衆のための仏法である。

ゆえに、人々を意のままに操り、欲望を恣にしようとする「権力の魔性」からは、激しい反発を受ける。

正義の人が立てば、それを妬む邪悪な人間が出る。御書に「仏と提婆とは身と影とのごとし」(230㌻)と仰せの通り、釈尊の時代には悪逆の提婆達多がいた。

麗しい和合を壊し、尊き仏子を苦しめ、五逆罪を犯した。最後は無間地獄に堕ちた。

提婆達多は、教団の実力者であった。釈尊の声望を妬み追い落とそうと、陰謀をめぐらしたのである。

広宣流布を阻む最大の仏敵は、教団の外ではなく、中に現れる。

邪宗門と結託した反逆者も、そうであった。
日蓮大聖人は、提婆達多は「虚言「虚誑罪」「大妄語」であると指弾され、「妬む心が深く」(御書1349㌻、通解)、「名聞名利が深い」(同1348㌻、通解)と喝破されている。

広布を破壊する、提婆のごとき増上慢の人間とは、断じて永遠に戦い抜くのだ。

イギリスの哲学者、J・S・ミルは「だれが責任をとるのかを、だれも知らないときには、責任は存在しない」(水田洋訳『代議制統治論」岩波文庫)と論じている。

万事において、責任を明確にして前進していくことだ。

誰かがやるだろう。何とかなるだろうーそんな無責任で、臆病な人間になってはならない。

民衆がいじめられ、正義が踏みにじられているのに、何も言わない。叫ばないーそんな卑怯な人間に、絶対になってはならない。

(続く)