投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 4月19日(火)15時53分18秒   通報
■油断を排せ!

戸田先生はおっしゃった。
「こっちには信心があるからといって、手をこまねいていると、そこに油断がおきるのだ。戦いには必ず相手があるのだから、慎重に万全の対策を立てなければならない」と。

どんな小さな報告にも、私はすべて手を打ってきた。真夜中に及ぶことも、たびたびである。

懸命な報告を見逃す指導者は、卑怯であり、無慈悲である。私は絶対に見逃さなかった。きちっと対応した。御聖訓に「億劫の辛労」(御事790㌻)と仰せの通り、祈りに祈り、全身全霊を捧げてきた。

ゆえに今日の学会ができあがった。世界に広がる、創価の連帯が築かれたのである。

これまで私は微塵も悔いを残さず、学会に尽くし抜いてきた。この真実を、御本尊の前で明確に申し上げておきたい(大拍手)。

ゲーテは語った。
「何度もひどくののしられたものだ。これは、最も高貴な行為をした時が一番ひどかった。しかし、私は人々の叫び声などには少しも気をかけなかった」(ビーダーマン編・国松孝一訳『ゲーテⅢ白水社)

ゲーテの偉大な境涯が偲ばれる言葉だ。
今から30年前の昭和54年(1979年)5月3日――。

私は、八王子の創価大学で〝会長辞任の本部総会〟を終えた後、学会本部へは戻らずに、そのまま神奈川文化会館へと向かった。

当時、学会は隆々たる発展を遂げていた。いわば〝絶頂期〟である、これからが本当の総仕上げという大事な時期であった。

その時に、非道な迫害の嵐の中で、第3代会長を辞めざるを得なくなったのである。

〈この日、読売新聞の朝刊に、日米の国民の意識調査の結杲が掲載されていた。そこには、日本人が「最も尊敬する」日本人の名前が載っており、第6位に池田名誉会長の名前が挙げられていた。
1位から順に吉田茂。野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇、その次が名誉会長であった〉

私が第3代会長を辞任した背景には、学会の発展を妬み、私を陥れんとする宗門や反逆者たちの醜い謀略があった。

ゲーテは「多くのひとは、私欲で落伍をする」前掲『ゲーテ対話録Ⅱ』)と述べたが、卑劣な反逆者の姿は、まさにこの言葉通りであった。

本気になって学会のため、正義のために戦う人間はいないのか。真実の味方はいないのか――。

あまりにも情けない無残な姿であった。本当に、人間の心ほど恐ろしいものはない。

思えば、その少し前の4月24日、私が会長辞任を発表し、信濃町の自宅に戻ると、妻がいつもと変わらぬ様子で迎えてくれた。

「本当にご苦労さまでした。健康でよかったです。
これでまた、大勢、同志に会えますね」

そう言って、微笑んでくれた。今でも忘れ得ぬ一コマである。

■真実の歴史を

私は、会長として指揮を執ることはできなくなった。

しかし私は、牧口先生、そして戸田先生が命を懸けてつくられた学会だけは絶対に守らねばならないと、深く決意をしていた。私とともに戦ってくださった、多くの真実の同志を守り抜こうと心に決めていた。

少しでも長生きをして、もう一度、本当の学会をつくり、未来に残すのだ。その思いで立ち上がり、ここまで頑張ってきた。

あの会長辞任から30年。私が陰で、友のため、世界の広宣流布のために、どれほど心を砕き、手を尽くしてきたか。学会をここまで発展させるのに、どれほど壮絶な戦いをしてきたか。

皆さんには、真実の歴史を知っておいてもらいたいのだ。
私の心を知り、私と同じ心で、戦ってもらいたいのだ。

(続きは明日)