投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月17日(金)17時23分40秒
ずいぶんと前の話ですが「文章を書く」という訓練を受けていた時に、
ある先輩から強烈に罵詈罵倒されながら仕込まれたことがあります。

「お前の文章は弱い。読み手には何一つ心に刺さるものがない」
「お前の文章は木刀の文で真剣の文ではない」
「こんな軟弱な文でどうして悪を斬ることができるんだッ」
「ダラダラ書くな、この1頁(A4)全文を4行にまとめなさい」等々――。

それはそれは厳しい訓練でした。
べつに「文を書く」プロを目指していたわけではなく、詳しいことは書けませんが、

ある日、ある時、池田先生が執務室で使っていた万年筆を頂いたのがきっかけで
「よし、言論(ペン)の闘士になろう」と腹を決め、決意したのがその始まりです。

先輩は言います。

「生命の実相を説いた御本尊の前に端座し、
南無妙法蓮華経と唱えるだけで生命を良い方向へ転換することができる。
なぜそこまで大聖人の仏法がわかりやすいか、わかるか。そうしないと末法の衆生は理解できないからだ」と。

考えてみれば、その通りかも知れません。

簡単なことを簡単に表現することは簡単です。
難しいことを難しく表現するのも簡単といえば簡単です。
簡単なことを難しく表現するのはひねくれ者です。
難しいことを簡単に表現できて、初めて偉大なのだと思います。

一切経という膨大な経典を研鑽し、極端すぎるほどわかりやすく解説し、
誰にでも実践できる方法を衆生に教えたのが、仏(日蓮)の智慧です。

末法に出現した仏の最大の慈悲で、誰にでもかわりやすく説いてくれたのですから、
末法の世に生きる人々は、素直にそれを「信じて」実践するしかないのではないでしょうか。

日蓮仏法は実践重視の哲学なのですから――。