投稿者:螺髪 投稿日:2016年 6月13日(月)19時52分14秒   通報
大仏のグリグリのとこさん、【如説修行と不軽菩薩の実践】じっくりと読ませて頂きました。

>法華経全体を見て、地湧の菩薩に対して付嘱が説かれた「神力品」の直前に、不軽品が置かれているのは、不軽菩薩も地湧の菩薩であり、末法に妙法を弘通する地湧の菩薩の実践、仏道修行の在り方を、不軽菩薩という具体的な人格を通して説き示したのが不軽品なのだと思います。
こう考えれば、大聖人の
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書一一七四頁)という言葉が鮮明に理解できるし、大聖人が顕仏未来記で表明している「威音王仏の像法の時、不軽菩薩『我深敬』等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と、その語ことなりといえども、その意これ同じ。彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」(御書五〇七頁)
という言葉も明確になります⑨-3<

素晴らしいですね。とても、われわれには真似のできない論考です。
しかし、寂しいですよね。なんの反応がないっていうのも。みんな、遠慮しているのです。グリグリさんやジョーカーさんは私たちと違う人、なんてね。これも「残機」でしょうか。せっかく、胸襟を開いて投稿してくださっているのに。尊敬の思いなのですが、やはり、反応はあった方がいいに決まっています。

そこで、私めの愚稿を一つ。
題して「命濁」への一考察。

コンプレックスは、劣等感と訳されることが多い。
だが正確には、「劣等感」(inferiority complex)と「優越感」(superiority complex)のふたつがあり、このうちの「劣等感」が広く使わられているということのようです。
中学生だったか、高校生せいだったか、英語の先生がそれを授業中に語ってくれて、いたく感心したものです。「英語にもこんな哲学性があるんだな」ってね(笑い)。いまは、精神医学のほうで使われることの方が多いようです。

「Complex」は、ラテン語の「com」(ともに)と「plectere」(編む、織る)が合わさった言葉だといいます。織り込むの意味だそうです。複合感情とか複合観念とも捉えられ、情緒的に強く色付けされた、表象が複合した心理ともされます。あるいは抑圧されながら無意識のうちに存在し、現実の行動に影響力をもつものともされています。
なんのことはない。積算された「蔵識」のことではないかと思ったものです。領域の違いこそあれ、あの九識論で説く第8番目の「阿頼耶識」「蔵識」ではないか、と。この時ぐらいからですかね、私の哲学的思考の癖が始まってしまったのは(笑い)。

誰の中にも、心の中に積算された複合観念があり、これが否定的な意味でも、逆に肯定的な意味でも、その人の表層の意識に現れるということなのでしょう。複合観念は「三千」とも、執着の意味の「著(じゃく)」とも捉えられます。
否定的な「劣等感」は比較的容易です。「他」と比べて「劣る」と見るから引け目を感じるのでしょう。比べなければ、引け目は生じません。

肯定的な複合観念、つまり「優越感」というのが少しわかりずらい。でも、人間の素性は昔も今もあまり変わりませんから、ことわざや、場合によって川柳にも登場してきます。

「他人の不幸は蜜の味」
「隣りの貧乏は鴨(かも)の味」
なんかはそうでしょうか。
他の人に対して「見比べ」の感情を抱いている時、そしてそれを見抜いた時、より強く「喜び」として感じます。つまり、ここでも「他」が入ってきます。
自分がその苦しみを知っているからこそ、それを上回っていることに「喜び」を感じます。あまり感心できる感情でないことは明らかです。

パソコン普及当初にも、そのような事態がありましたね。初心者はすべての技術を知って参加する人はまずまれで、教える側はそのひとつ一つを教えるのはとても面倒ですから、どちらかと言えば避けます。「まず操作するのが一番」とその人にやらせ、「おお、そこまできたか」などと、後ろでほくそ笑んでいた人もいたのでないでしょうか。その「労苦」が解かるからです。これも、ひとつの「優越感」ですね。

このあたりは、ラカニエンヌさんが専門も専門、プロフェッショナルです。間違いがあればご指摘ください。ただしわれわれ庶民にも解りやすくお願いします。「そんなこと言ってないで勉強しなさい」とお叱りを受けるかも知れませんが(笑い)。

いまは読まなくなりましたが、法華経寿量品第16の長行に「楽於小法 徳薄垢重者」(小法を楽(ねが)える徳薄垢重の者)とあります。つまり、徳が薄く垢の重なる衆生はどうしても小法を求めてしまう、というのです。やはり、どこまでいっても「己心の法」です。
でもこのすぐ後に 「為是人説 我少出家 得阿耨多羅三藐三菩提」とあります。「この人の為に 我(仏)は少(わかく)して出家し 阿耨多羅三藐三菩提(覚り)を得たり」という意味です。つまり、この箇所を通読すれば、仏は小法を楽(ねが)う徳薄垢重の者を救わんがために、少(わかく)して出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たというのです。グリグリさんの講義によれば、それは三十二相八十種好ではなく、凡夫の姿をした「菩薩仏」です。

さて、その「徳薄垢重者」です。
「徳薄」と「垢重」に「分けましょう。
「徳薄」は「徳(とく)」が「薄い」と読んでいいのでしょう。こちらは、比較的容易です。
「徳」(三徳)は「三諦」や「三身」と同じものです。

こう仰せです。
「法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり」(一念三千法門P413)
三徳の般若、三諦の空諦、三身の報身で読めば「仏の智慧」です。

その智慧は、
「智慧とは南無妙法蓮華経なり」(御義口伝P725)
と仰せです。究極的には唱題しかないということです。

さてさて、もうひとつの「垢重(くじゅう)」です。                  (つづく)