投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月13日(月)10時20分29秒   通報
大聖人は「竜口の頸の座」という大難を乗り越え、配流の地である佐渡へ向かわれる途中、
佐渡へ渡る港町として栄えていた寺泊に到着します。

そして寺泊から富木常忍に送った手紙の中で、
(大聖人が)難に遭うのは衆生の機根も知らずに折伏したためである等々、さまざま非難する者たちに対して、
折伏弘教によって難に遭うことは法華経の経文通りであると訴え、それらの疑難を破折されたうえで

「法華経は三世の諸仏の説法の儀式である。
過去の威音王仏の時の不軽菩薩の修行を明かした不軽品は、
今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。

今の勧持品は未来には過去の不軽品となって修行の模範となるであろう。
その時、勧持品を身読した日蓮は過去の不軽菩薩として折伏の模範となるであろう(通解)」
(御書九五三頁)と訴えました。

――今、勧持品に説かれる三類の強敵を呼び起こしたのは私(日蓮)である。
それは過去に不軽菩薩が戦った闘いを、今、この身で実践しているのであり、未来から見るならば、
今の私(日蓮)の戦いは、不軽菩薩と同じであるとわかるであろう――とは大聖人の大確信です。

池田先生は

「ぼやっとして『法華経』を、紙に書いた二十八品のことと思ってはならない。
仏法は『今』『ここの』、凡夫の『現実』のなかにしかないのです。

この『今』の奥底を『久遠』といい、この奥底を開くことを成仏という。それを教えたのが法華経なのです。・・・・(中抜)、

大聖人は『不軽菩薩はじつは釈尊であった。今、大難にあっている私もじつは釈尊なのだ。仏なのだ』と教えてくださっているのです。
それがわからないと、法華経を学んだことにならないよ」(法華経の智慧五巻一一七頁)と指導しました。

私たちはこの師匠の指導を、今こそ深く思索すべきだと思います。

最後に御書の一節を記して終わります。

――在世は今にあり、今は在世なり―― (御書九一六頁)

このご金言は、私たち池田門下生にとって永遠不滅の原理なのです。
おわり