投稿者:mission 投稿日:2016年 5月17日(火)13時31分6秒   通報 編集済
私事になりますが、2回目の転居先に移った翌年(2006) 突然 圏婦と本部婦が家にやって来て、我が家の庭に掲げていた大きな三色旗を「下ろしなさい」と言われました。

もちろん断じて怯まず、圏婦より上(壮年)の三人を経て、当時の県役職まで抗議に行き続け解決したのですが、その時に『第一次宗門問題の時の池田先生の事を詳しく知りたい』と色々調べた事があります。

四国のメンバーのblogですが、当時の事を本当に詳しく書かれています。
【楽土建設のの革命児たれ*紅の歌1~5】
2006.10.1~投稿されていますが、本当に手に取る様に書かれてますので、是非読んでみて下さい。

1977年(昭和52年)「仏教史観を語る」と題した池田先生の関西での講演を、日顕宗が一方的に問題視し学会批判が週刊誌も巻き込んで始まったと書かれています。

《少し長くなりますが紹介します》
【辞任発表】
1979年(昭和54年)4月24日(火)全国統一地方選を大勝利で終え、新宿文化会館で県長会が行われました。
全国から嬉々として師の下(もと)に集ったこの会合は、大歓喜の内に始まり終わることを誰一人疑う者はいませんでした。
「今日は会長交代だよ」との池田先生の一言で、会場は水を打ったような静けさに一変しました。
全幹部が、一瞬、何かわからなくなったのです。誰もが聞き間違いだと思いました。
「次ぎの会長は北条さんだよ」皆、初めてこの事態を呑み込みました。
池田先生は「だけど、何も変わらないんだよ!」と…。いつもと変わらぬ姿がそこにはありました。
場内のあちこちですすり泣く声が漏れ。その光景を慈しまれ、師は弟子に向かって。
「泣くやつがあるか。大難が来たんだ。これほどの喜びはないじゃないか」と言われ、会合終了後、エレベーターの前で、参加者全員と握手し、激励されました。
その後、池田先生は「学会は私を裏切ったな。しかし、私は学会を裏切らないから安心しなさい。私は何も変わらない。恐れるな!私は戸田先生の直弟子である!正義は必ず勝つ!」と言われました。
その後、会長勇退記者会見のため聖教新聞社に向かわれました。
新宿文化会館5階よりエレベーターに乗った池田先生は、その扉が閉じる寸前に。
「もう、ドラマは終わってしまったよ」と…。
そして1階で止まるなり、
「さあ! 新しい時代の幕開けだよ!」と。
エレベーターの扉は無限の空間の前に開かれ、そこから傷だらけで、血まみれになっても尚、戦うことをやめぬ、真実の戸田門下生の壮絶な死闘が開始されたのです。
その後、聖教新聞社において、会長勇退が発表。

【K副会長談】
昭和54年12月、神奈川文化でその年最後の中央会議がおこなわれました。
まだ、Y崎等が大きな顔をして出入りをしており、重苦しい雰囲気の中、会議は終了。
翌朝、先生に御挨拶にうかがいました。私が廊下を通り過ぎようとししていたところ、ある部屋から鋭い電気カミソリの音が聞こえました。
ふと部屋をのぞくと、先生が神奈川文化の7階の窓から横浜港を眺めながら一人、ひげを剃られていました。
周りに誰もおらず、「おはようございます」と元気に入っていったのです。
以下、K副会長と先生のやり取り。
「おはようございます。先生、お願いがあります。この港に四国の同志で船を乗り付けたいのですが、よろしいでしょうか」
先生は、髭剃りの音で船と港しか聞き取れなかったらしく
『何、ここに船を持ってくるので俺に乗って遊べと言うのか?』
「いいえ、そうではありません。ただ遊んでくれと申し上げているのではありません。1万トン級の船で、一千名の四国の同志を集めて先生のもとに来たいんです」
『なに、一万トン級の船で、一千人がこの神奈川へ、この横浜へ来るというのか』
「そうです」 『ほんとうか』
「ほんとうです」 『よし、来い!来い!来ーい!』
この時、廊下を秋谷会長(当時副会長)が通られ、その姿を見つけられた先生は
秋谷、いいなー』
何も知らない会長は「はい」と。
「じゃぁ、早速帰って準備をします」 『ん、待ってる』
以下、その後のK副会長と秋谷会長とのやり取り。
『なに、船で来る。この寒空の中太平洋を船で来るとは、おまえ、何考えているんだ』
「でも、先生が来いとおしゃっています」
『来いといっても、もし万が一の事があったらどうするんだ』
「天候が悪いから海が荒れているから会長はやめろと言うんですか?」
『そうだ、危険だから言うんだ。何かあったら大変だから言うんだ』
「じゃぁ、お尋ねしますが、横浜港と田子の裏とどの位離れているんでしょうか?ここから田子の裏までが荒れているんでしょうか」
(当時、四国からは登山のため、毎月船が出ていたのです。)
『それもそうだな、田子の裏まできているんだな冬でも』
「そうです、あれは小さいですが今度のサンフラワーは大きいんです」
『わかった、わかったよ』
時に1979年(昭和54年)12月28日のことでした。
こうして、四国・神奈川交流幹部会は四国の友の燃えるような求道心によって開催が決まったのです。

《他にも沢山あります》