「永遠の都」指導の続き

投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月13日(土)16時19分9秒 返信・引用

物語についてくわしく論ずるのは略させていただくが、ロッシはローマの古代遺跡コロセウム(円形競技場)で、大衆を前に、こう演説する。

「われわれの敵は、われわれに反逆者の烙印を押したがっております」

それがつねに権力者の手口である。しかし――。ロッシは言う。
「いったいだれにたいする反逆なのでしょうか。民衆にたいする反逆以外に反逆なるものは存在いたしません。民衆こそ真の主権者であり、その民衆を抑圧する階層こそ唯一の反逆者なのであります」
今、私どもも、彼の論の正しさに心から賛同する。

さらに、ロッシは
「彼らは軍服に身をやつしているかもしれないし、あるいは大臣の礼服に身をやつしているかもしれない。しかし、もし彼らが民衆の臣民、民衆の召使でないとすれば、つまりは真の反逆者といわざるを得ません。たとえだれが否定しよと、これは痛切な真理なのであります」と。

演説は憲兵隊の監視下で行われたにもかかわらず、聴衆に共鳴の大波が広がり、すぐに満場の歓喜となった――。
青年は「雄弁」であれ。青年は「知力」がなくてはならない。
《あの人の言うとおりだ》《彼は私たちの本当の味方だ》と、民衆から信頼され、安心される青年であってこそ、大切な「広宣流布」の将来を託すことができる。

ともあれ、ごまかしの詭弁が渦巻く現実社会の中で、真実の「正義」を見極める《ポイント》は何か。
それは「民衆のために尽くすのか」、それとも「民衆を裏切り、利用するのか」――この一点を基準に判断していけばよいというのである。

これは宗教の次元においても変わらない。
『永遠の都』では、《民衆を圧迫する聖職者》が厳しく断罪されている。

一人の庶民は、こう言いきる。
「もし法王が民衆と共に歩きたくなければ、民衆は法主をぬきにして前進しなくちゃいけない」と。
いつの時代も、庶民の目は鋭い。ごまかせない。傲り高ぶった一部の人間によって、民衆と時代の前進を止めることはできない。否、絶対に止めさせてはならない。

ロッシは呼びかけた。
「われわれはいったい何をすべきか。人間としてのわれわれにあたえられた義務とは、不正と圧制に直面して民衆の主権を強く主張するとうことであります」と。

また、「人間としてのわれわれの義務とは、民衆の進む道に横たわたるあらゆる障害を取り除くことであります」と――。

そして、その障害物の一つとして、宗教の権威――聖職者がたちはだかってきても、われわれは権威の《幻》に尻ごみしてはならない、と彼は訴える。

《断じて進め!権威の壁を乗り越え、押し倒して進め!》――これが青年ロッシの、命をかけた絶叫であった。
また、これこそが、わが学会青年部の永遠の魂であると、私は確信する。

恩師戸田先生が、この一書に託して、私をはじめとする青年部に示そうとされた「民衆救済の道」「宗教革命の道」――私はその茨の道を四十四年間歩みぬいてきた。

世界に妙法を弘めた。
日蓮大聖人の名を全世界に輝かせた。
平和へと渾身の力で時代を動かした。
文化と教育の大道を開いた。
口先だけの人間に、何を言われようと、「事実」は世界の人々が知っている。

民衆が知っている。何より御本仏、三世の諸仏が深く真実を知っておられる。
嫉妬による策謀など、私は眼中にない。

宇宙大の仏法の世界から見れば、豆粒のような小さな人間のうごめきにすぎない。
ただ、御本仏の御遺命であり、最も大切な「広宣流布」が足を引っ張られ、遅れてしまうことが悲しい。
ゆえに、断じて一切に打ち勝ち、断じて前へ前へと進みきっていかねばならない。
御本仏とともに、皆さま方偉大な仏子とともに。

【第四十五回本部幹部会 平成三年八月二十四日(大作全集七十八巻)】