投稿者:螺髪 投稿日:2016年 9月 3日(土)10時46分43秒   通報 編集済
なぜ、“敵”は「内部」にあるのでしょう。「三失心」があるからです。

自信と慢心は“紙一重”です。不信も、自信を得るための作業ですから、自信の一部です。思い上がり、我執、そして不信――「三失心」がすべてを狂わせていると言えます。どの人も、ほとんど例外なく「三失心」です。「三失心」が世の中に充満しているというのだから、おかしくなるのが当たり前です。ひとつの統一体となった「生命体」は、その存続、継続、再生に死力を尽くす。その現れなのではないでしょうか。

「三失心」とは、「上慢」と「我慢」と「不信」の三つを言います。「上慢」は増上慢ともいい、得ざるを得たりと思い高ぶること、「我慢」は我見を張り他を軽んずること、「不信」は文字通り信じないことをいいます。これは、法華経方便品第2にある「比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信」について、末法の衆生の濁りの深さを述べられたものです。

こう仰せです。
「文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬て聖果と謂い偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し」(御義口伝P718)

「四衆」というのは、出家の比丘、比丘尼と、在家の優婆塞、優婆夷です。その数は、このすぐあとに、「日本に四十九億九万四千八百二十八人」とされて見えます。これは日本の人口です。いまのように戸籍も、国勢調査もなかった時代ですが、できるだけ公けに近い数字を踏まえようとされている御様子が伺えます。
この時代の数は、中国の単位を使っていたようです。「億」は現在の「十万」とされますから、「桁」を合わせると四百九十九万四千八百二十八人となります。つまり、全員ということです。

別の御文にはこうもあります。
「日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・某一人を不思議なる者に思いて余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて」(新池殿御消息P1437)という仰せもあります。つまり、大聖人お一人を除いては、「三失心」だというわけです。(※註・某=それがし)

「生(せい)」を営むというのは、「欲」を行使することに等しい。その「欲」は、やがて他の「欲」ばかりか、その存在をも抹殺してしまいかねない。畜生、修羅の行状です。人間も蓄身を持つ。その蓄身の欲求に従う限り、人間は「仏」にはなれない。せいぜい「菩薩」です。「九界」です。
その意味では、中国の道綽(563~645年)やその弟子の善導(613~681年)、日本の法然(1133~1212年、=源空)の「千中無一・未有一人得者」の説は正しいかも知れません。彼らなりの達観だったのでしょう。仏教内部から起った“敵”です。

だが、千年に一度ぐらい、その「欲」を乗り越える人が出る。「仏」が出る。人類の「理想の法」に命を投げ出した人です。その人が「仏」です。釈尊であり、師・日蓮です。命を投げ出すほどの覚悟がなければ、おおよそ蓄身の「欲」を乗り越えることなど無理なのです。命を投げ出すその「覚悟」は、実質的に「帰命」と同じものです。覚悟の人を「師」として蓄身を制御する人は、その人に順じた生き方が可能です。「欲」を制御する「人類」の模範となることができます。

いままた、道綽、善導、法然のような畜生、修羅の人間が出てきました。「自らの限界」を「法の限界」と見る人間です。「三失心」を構えた人間です。

身の主は心です。
「心は是れ身の主なり」(道場神守護事P979)。
では、心の主は、何でしょう。心の主は、「南無妙法蓮華経」であるはずです。