投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月 6日(金)03時22分53秒  

観心の本尊抄文段より
「本門戒壇の大御本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり。」

日寛上人は、大御本尊を総体の本尊とし、ほかの本尊は別体の本尊と立て分けている。今回の会則改正での変更点は、総体・別体という立て分けをなくし、すべて総体もしくは別体の本尊としたところにあります。

そして、「学会が御本尊を認定する」といっても、よくよく考えたら、実質的に今までも認定してきたわけであり、日顕書写本尊を不認定としたり、日寛書写本尊を採用したのも、学会が認定しているからでしょう。今更感が否めない認定発言の裏には一体何があるのか・・・

御本尊がフラット化されたことにより、学会が認定さえすれば、いかなる本尊を採用することも可能となった。ある意味、大御本尊という概念は本尊のルールであり、それを逸脱しないところに、ある種の均衡や秩序が保たれていた。それが撤回されたことにより、御本尊の無秩序状態となり、それに関連し、将来どのような問題が起きるかは、未知数である。

御本尊のことすらもノールールで認定できるようになったということは、さらに執行部の権限が強まったことを意味します。一歩間違えれば1000万という会員が、誤った方向に進んでしまう危険性もあり、責任重大である。もちろん、会議においては議事録を作成し、映像や文字、音声も残していることでしょう。そういう証拠を残しておかないと、言った言わないの世界であるが故に、問題が起きた時、真実を証明することができなくなる。最低限の防衛策でもあり、また、自浄作用にもつながることでもあります。

権限が強まると、リスクも増大し、しっかりリスク管理をしていかないと、一度歯車が狂ってしまうと、取り返しのつかない事態を招きかねない。それが歴史の教訓でもあり、権力の魔性はそこに付け込んでくる。執行部が善であれば問題ないが、悪となったときに歯止めがきかない体制が整いつつある。私はそこを懸念しています。

多くの会員は上層部が決めたことには従うでしょう。それが組織というものであるからです。それに対する反対意見や問題点というものはスルーされる傾向にあり、思考停止というのは、一つの観点からしか物事を見ることができないこととも言えます。組織では、決まって肯定的な意見しか取り上げられないので、その観点のみで判断してしまいます。どんなことでも、全面賛成なんてことはあり得ません。必ず反対意見や問題点というものは存在します。そこから目をそらせ、あたかも何の問題もないかのように事を進めること自体が、実に恐ろしいことなのです。

いろんな意見や考えに耳を傾けていくことが英知となり、それが中道を貫く精神といえましょう。悪とは決まって、独善的で、話を聴かないものです。お決まりのパターンというやつです。悪を見抜く一つのポイントがここにあります。一方的で、話を聴かない姿勢、それが魔王の使いであり、用心しなければならない相手です。このような幹部に出くわしたときは要注意なのです。