投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 2月 4日(水)19時30分6秒  

御本尊に対する考え方は学会員の中においても、千差万別でしょう。厳格な人もいれば、幸福製造機(物)寄りの考え方の人もいます。昔、聞くところによると、欧米のどこかでは、御本尊を幸福になるための手段(物)として完全に割り切っているという話を聞いたことがあります。また、アメリカSGIのメンバーに聞いたところ、アメリカ人は、簡単に信心をはじめるけれども、その分、簡単に退会もすると。それぞれの地域や国、宗教観の違いによって、御本尊に対する考え方も違うでしょう。

日本人は、無宗教が当たり前であり、宗教には抵抗がある。その分、入会するのは相当な勇気がいることであり、辞めることもエネルギーを要する。というか、脱会となると組織ではかなりの大騒ぎとなる。このあたりが、宗教やっていて当たり前の海外とは違うところなのだと感じます。

お守り御本尊流布が解禁された時は、御本尊流布はバンバン進みましたが、内容が酷かったことを覚えています。本当にお守り感覚で渡してしまうこともザラで、本人は入信したことすら気づいていないというレベル。今となると、そういうメンバーが統監に名前だけ載っていて、組織としてもどのように対応していいかわからないような状況になっています。

御書においての御本尊についての取り扱いに関しては、新尼御前御返事(p904~)の中で、重恩の人である名越の大尼に御本尊をしたためない決定をされている。理由は、大尼は信心が定まらず、あるときは信じ、あるときは破り、大聖人が竜の口の法難で、佐渡に流罪されたことを契機に、法華経を捨ててしまったからです。
一度反省しても、信心のない者には御本尊を下付しないという姿勢であることがうかがえます。

現代は、印刷技術の向上により、鎌倉時代とは違い、御本尊を複製することは容易であり、手間もかからない。一幅一幅手書きで認めるような時代ではない。そういう観点から考えると、ある程度は柔軟に御本尊を流布することは良いと思います。

だからといって、御本尊を軽く扱うようになったら、それは信仰者としてどうなのかと。御本尊を持っても、信心しない人もたくさんいます。現場では「御本尊を持ったこと、縁したこと自体がすごいんだ」と、指導・激励する幹部もいます。また、一方で、実践三項目を確実に実践しない人は、入会させないと厳格に考える人もいます。このように御本尊に対する考え方はまちまちであり、信仰の根幹にかかわる故にデリケートな問題です。

また、御本尊に関する細かい記述は御書にはありません。日興上人に対して、口伝として伝わっているものであり、文献として遺すような代物ではないでしょう。おいそれと口外できるような内容ではないことくらいは想像できることでしょう。故に御書に書かれている、書かれていないだけで判断できるようなことでもないし、極めて慎重に考えていくものなのではないでしょうか。「これが正解」という答えを出すことは難しいですし、むしろ「正解」と言い切れるものがないからこそ、日寛教学を根本としてきたのではないか。

自分にとって、御本尊とはどのような存在なのか。それをしっかり考え、向き合う契機としていくことも大事だと思います。組織が決めたからとか、時代どうこうという前に、自分はどう考えているのか。すべての事象を、信を深めるためのきっかけとしていくこと。それが価値創造の、創価の生き方ではないでしょうか。