投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 2日(金)07時26分2秒   通報
では、悪業の鎖から解き放たれることはできないのか、、。
大聖人はできるとおっしゃっています。其の方途も具体的に私達の為に残してくれました。

それは、8識の宿業の世界で、宿業転換に時間がかかる「因果異時」の「常の因果」の法則とは別に、それとは比べものに
ならない程に強力な宿業転換の法則です。
それが、上に書いた、染法の悪の根源、「無明」の生命を対治することです。
そして、その手段が「真如の妙理」「第9識」の南無妙法蓮華経への「信」です。

そして、最も大切な事はこの南無妙法蓮華経は、諸法と実相が一体である生きた南無妙法蓮華経如来だという
事です。この本仏は凡夫の私達と同じように、洗浄の二法が渦巻いている八識の真っ只中で生きているのであり、
そして自己の内と外の無明と戦っている凡夫仏なのであります。
その意味からも他宗が、仏という存在を、因果や輪廻を超越した特別な人間としてたてていますが、そういう仏は
実際には存在しません。
その南無妙法蓮華経如来が実は大聖人であり、なかんずく、大聖人が滅後の為に残された、人法一箇の御本尊です。

「元品(がんぽん)の無明(むみょう)を対治する利剣は信の一字なり」 御義口伝 p751

とある通りです。御本尊への信を基調に、行、学の二道を、身、口、意で行っていくことにより、、強大な歯車が回る様に一気に
宿業転換の為に悪業の浄化が行われていくと同時に生命の実相、南無妙法蓮華経に立脚した強い生命からくる善業が同時に
積まれていきます。
それは真実の仏に直接触れる、又、その真理を学ぶことにより、成仏の種が即座に撒かれ(成仏の因)、又その功徳(成仏の果)を
長い時間をかける必要なく満喫できる「因果具時の不思議の一法」の「大いなる因果」を基調にした善業そのものです。

更にその強い確信のある「信」は「仏の智慧」を呼び覚まします。これを「以信代慧(いしんだいえ)」といいます。
「信」によって「智慧」が出る、、、法身如来(ほっしんにょらい)に直結した私達の生命に冥伏(みょうぶく)していた
報身如来(ほうしんにょらい)がむくむくと顔を出し、広宣流布を進める応身如来(おうじんにょらい)がそれに続きます。
(仏の三つの働きの側面(三身)- 法身(上に書いた(1)の生命の実相、真如の側面、報身(仏の智慧を顕現した生命)、
応身(慈悲の故に、実際の現実の世界において衆生を救う仏の体)、、大聖人滅後においては、これは御本尊そのものであり、
又、御本尊を信じる凡夫の私達の生命の上に、この三身が湧現してくる。)

先に九界に互具する仏界のことを書きましたが、それと同じように、仏界にも九界を互具しています。
しかし、この九界は九界の善悪の可能性も全て含みながらも、南無妙法蓮華経の威光に照らされて、それぞれの立場で仏の仕事
をしていく九界です。これは九識心王真如の都に住している本有の九界が現れたものだともいえるでしょう。
それが御本尊に顕された、中央の南無妙法蓮華経と、傍に書かれている十界の生命です。そしてそれを体現した仏として「日蓮」の名が
人法一箇として、刻印されています。

こうして現実化していく一人ひとりの宿命転換の波動が、依正不二又、縁起の原理によって、国の、又、人類の宿命転換へとつながっていく,
その使命を大聖人は私達に託したのではなかったのでしょうか。

私達の真実の「発迹顕本」、、それは地湧の菩薩の使命を自覚し、広宣流布への行動を地道に行っていく事に他ならないと
私は思っています。