投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 8月16日(火)20時02分27秒   通報
新・人間革命 清新53より
「この地球上には、思想・宗教、国家、民族等々、さまざまな面で異なる人間同士が住んでいる。その差異にこだわって、人を分断、差別、排斥していく思想、生き方こそが、争いを生み、平和を破壊し、人類を不幸にする元凶であり、まさに魔性の発想といえよう。」

::::::

私の知人が、安保法制に反対したことにより、組織から腫物扱いされ、排斥されたことは、依然投稿しました。支援期間が終わった今でも同じように、活動に参加できないでいる。まさか、政治信条が異なっただけで、貴重な活動家を、ここまで邪魔者扱いするとは、情けない話です。

会員を犠牲にした上の団結に、どれほどの意味があるというのか。組織の方針と合わない会員を排斥し、自分たちの正義を主張する。それを独善といい、排斥の心そのものが、魔性の発想である。特に権限を有している人間は、「権利の濫用」にならないよう、気をつけなければならない。

権限を有する人間には、常に説明責任が問われる。そうでなければ対等ではないからだ。説明責任も果たさず、一方的に処分することは、これもまた魔性の発想だ。それは、すごく恐ろしいことであり、人間主義を標榜する創価学会の中においては、許されないことは言うまでもない。なぜなら、信心とは、魔性の心との戦いだからだ。

21世紀は、納得の時代ですので、説明できないことや、隠し事をすること自体がおかしなことです。それでは、人の心は離れてしまうからです。同志であっても、政治信条が異なるだけで排斥しているようでは、一体これからどのように、世界を結び付けていくのか。この一方的な体質こそが、54年体質であり、変革しなければならないもの。それを阻むものこそが、魔性の発想である。

組織人として、陥りやすい魔性の発想は、「勝利のためなら、多少の犠牲はやむを得ない」である。その反対に、仏の発想は、「一人たりとも、断じて犠牲にしない」であり、その心があれば、排斥などあり得ないではないか。そして、魔性の発想をする人間は、自らの魔性に気づけない。だからこそ、指摘していかなければならないのだ。広宣流布とは、あくまでも仏の発想のみで推進するものであり、魔性の発想は、広宣流布を破壊する。

組織内に溢れる魔性の発想を見抜き、是正していかなくては、会員を犠牲にし続けてしまう。御書も三代会長の指導も、仏の発想だからこそ、根本とすることができる。今の創価学会は、魔性の発想が強まってきている。仏の発想で生きるのか、魔性の発想で生きるのか。学会員も、そこが問われていることを、知らねばならない。

仏の発想の人間は、自分自身も納得しているので、余裕がある。魔性の発想の人間は、自分をごまかしているので余裕がない。心に余裕がなければ、対話は成立しない。一方的で、対話なき排斥や処分は、余裕のない証拠である。魔性の発想を打ち破り、仏の発想を湧現させてこそ、人間革命だ。新人間革命を他人事のように漫然と読んでも、何にもならない。今のキーワードは、「自分自身の魔性の発想を打ち破れ」なのである。