投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月31日(日)08時28分25秒   通報
全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2007-5-19 【首都圏代表協議会】

■ 一、首都圏代表協議会の開催、ご苦労さまです。
はじめに世界広布の偉大なる前進を祈り、一句を贈りたい。

師弟不二
晴れ晴れ勝ちゆけ
広布かな

●世界広布は 今、花盛り!
一、「広宣流布」の和合僧の集いほど、楽しく充実したものはない。「異体同心」の同志の語らいほど、朗らかで清々しいものはない。
ここにこそ、久遠の家族の結合があるからだ。きょうも、大いに語り合いたい。
日本だけではない。
アメリカ、ブラジルをはじめ、南北アメリカ大陸でも、ヨーロッパ、ロシア、そして、アジアを擁するユーラシア大陸でも、アフリカ大陸でも、そしてオセアニアでも、広宣流布のリーダーたちは、私と同じ心で、見事なる大発展の指揮を執ってくれている。
皆さま方の輝く信念と、聡明にして尊き行動に私は心から感謝申し上げたい。
日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書816ページ)と仰せになられた。
まさしく今、この仰せ通りに、日本の広宣流布の晴れ姿とともに、「世界広布は花盛り」の時を迎えた。
ともどもに、ますます希望に燃えて、新たな決意と力を漲らせながら、尊き使命の坂に挑み、広布第2幕の勝利と栄光の頂上へ向かって、愉快に登り切ってまいりたい(大拍手)。

●「ただの島の長ではないか!」
一、日蓮大聖人の御在世に退転した弟子に三位房がいる。
これまでも、折々に語ってきたが、大事な教訓であるので、きょうは、そのポイントを確認し合いたい。
三位房は、大聖人の御慈悲で、比叡山に遊学し、京に上った。
そのとき、三位房は、“ある公家の持仏堂に呼んでいただき、説法をして、面目をほどこしました”などと、得意げに大聖人に報告してきた。
それに対して、大聖人は厳しく戒められた。
──日本の権力者など、ただの「島の長」ではないか。その長に仕える者たちに「呼んでいただいた」などとは、なにごとか。「面目をほどこした」とは、いったい、どういうつもりか。おまえは、師匠の日蓮を卑しんで、このようなことを書いてきたのか──と(同1268ページ、趣意)。
三位坊の報告には、世界第一の仏法を行じる大聖人門下の誇りなど、いささかも感じられなかった。
それどころか、表向きは師匠を尊敬しているようであっても、内心は権威の世界におもねり、自分が偉くなったと思いこんで、師匠をあなどる心があった。
増上慢である。
それを大聖人は鋭く見抜かれた。
一番、師匠にお世話になり、一番、師匠に仏法を教わったにもかかわらず──。
結局は、「師匠が中心」ではなく、「自分が中心」であった。「自分本位」であった。
増上慢は、恩知らずである。恩知らずということは、道理が分からないということだ。道理が分からないということは、仏法が分からないということだ。
三位房の本質──それは、傲慢であり、臆病であり、ずる賢さであった。

●「京なめり」への厳しき戒め
一、さらに大聖人は厳しく言われている。
「総じて日蓮の弟子は、京に上ると、はじめは忘れないようであるが、後には天魔がついて正気を失ってしまう」
「京に上って、いくらも経っていないのに、実名を(貴族風に)変えたということであるが、狂っている」(同ページ通解)
貴族社会と交わり、初心を忘れ、名前を飾り立て、言葉づかいまで変わってしまった。なんと哀れな弟子か。
大聖人は、重ねて仰せになっている。
「きっと言葉つきや発音なども、京なめり(なまり)になったことであろう。
ねずみがこうもりになったように、鳥でもなくねずみでもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていず、(退転した)少輔房のようになってしまったと思われる。
言葉は、ただ田舎言葉でいるがよい。(どっちつかずなのは)かえって見苦しいものである」(同ページ、通解)
「京なめり」──華美に流され、魔性に生命を食い破られた三位房の姿を、大聖人は一言のもとに暴いていかれたのである。
三位房が後に、大聖人の教えに背いて、退転し、惨めに死んでいったことは、ご存じの通りである。
大聖人は、大慈大悲の御境涯から、もっともっと厳しく叱っていたならば、助けることもできたかもしれないと言われている(同1191ページ)。
ゆえに、増上慢の人間を厳しく戒めていくことは、大聖人の御精神に最も適った、正義と厳愛の戦いなのである。

●民衆と共に! 民衆の中へ!
一、大聖人は、御自身のことを「遠い田舎の地の者であり、民の子どもである」(同1332ページ、通解)と、堂々と宣言されている。
自分は、特別な生まれ、家系ではない。
「民の子」である。それを、少しも恥じることなく、むしろ、誇りとされた。
民衆の子であるからこそ、民衆の心が分かる。また、もしも高い地位にあれば、権力に守られて、あれほどの大難に遭われることもなかったであろう。
御本仏は、どこまでも、民衆の子として、民衆のなかに分け入り、民衆の苦しみをわが苦しみとしながら、民衆救済の大仏法を弘めていかれた。
そのように、わが身をもって、真実の広宣流布の道を教え残していかれたと拝察されるのである。

●学歴ではない
一、戸田先生は、「信心に学歴は関係ない」と断言された。
当然、学問は大事にされた。しかし、学歴などを鼻にかける人間が幹部になれば、会員はだれもついていかないぞ、皆がかわいそうだ、と厳しく言われた。
御書の教えは厳正であり、公平である。
「法妙なるが故に人貴し」(同1578ページ)と仰せである。
「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(同465ページ)と仰せである。
大事なのは、広宣流布のために働く人である。
大変ななかで、歯を食いしばって、妙法のために戦う人が一番尊いのである。
有名な学校を出たとか、社会的な地位があるとか、そんなことは、信心には、まったく関係ない。
なかんずく、学会の庶民の力で偉くしてもらいながら、大恩を忘れ、傲慢になり、最後は裏切って、反逆していく──そんな畜生以下の人間が出たならば、断じて許すな、その大罪を未来永劫に糾弾し抜いていけ、と恩師は厳命されたのである。
「私がいなくなった後が怖いぞ」「増上慢に勝手きままにやられるぞ」「それをさせないために、私は厳しく言うのだ」と。
学会を見下したり、学会利用に走る人間への先生の怒りは、すさまじかった。それこそ、命がけで叱ってくださった。皆が震え上がった。
学校を出ていても出ていなくても、偉大な人は偉大であり、愚かな人は愚かである。
このように「人間そのもの」を見ていくことが、仏法の眼である。

●師弟の真実 を叫び抜け!
一、「師弟の道」を貫いていくことが、一番賢明な、一番正しい道であり、永遠の勝利の道である。
私は、牧口先生、戸田先生の真実を叫び抜いて、その通りにやってきた。
「先生!」「先生!」と叫んで、三障四魔、三類の強敵と戦いながら、一人、立ち上がって、師弟不二の学会を築いてきたのである。
師弟という車軸があってこそ、異体同心の団結が生まれる。
中心の幹部が、師弟を忘れ、師弟を軽んじ、その心が、ぶれてしまえば、団結することはできない。
信心は心である。「心こそ大切なれ」(同1192ページ)である。
だからこそ、幹部は、師弟不二を心の底から叫んでいくことだ。
虚偽や見栄、増上慢は、敗北の道、滅亡の道である。そうならないために、断固、責め抜いていくことだ。
破邪顕正といっても、破邪がなければ、顕正はない。
邪悪を暴き、邪悪と戦い、邪悪を打ち破ってこそ、顕正がある。
生涯、誉れの師弟の大道を晴れ晴れと歩み抜いていただきたい( 森田一哉元理事長のご冥福をお祈り申上げます。

●御本尊の力用は勇気ある信心に
「大聖人は、真剣に仏法を信じ、行ずる日女御前に、こう仰せである。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(御書1244ページ)
広宣流布に生き抜く、皆様方の生命それ自体が、尊極の御本尊の当体なのである。
この一点を深く自覚するならば、わが生命に「歓喜の中の大歓喜」がわき起こらないわけがない。「随縁真如の智」が流れ通わないわけがない。「三世十万の仏菩薩」が護りに護らないわけがない。
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244ページ)である。勇気ある「信心」があれば、汲めども尽きない御本尊の力用が満ちあふれてくる。
日寛上人の文段にも、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と、断言なされている通りである(「観心本尊抄文段」)。
偉大なる信力・行力で、偉大なる仏力・法力を、わき立たせていきたい。

一、ここで、御本尊の絶対の功徳の力を教えられた、戸田先生のご指導を、いくつか確認しておきたい。
「御本尊は、大宇宙の生命を最も強く結集された当体である。その御本尊と感応するから、こちらの生命力も最も強くなるのだ」
「いずこであれ、御本尊ましますところこそ、最高の聖地である。広宣流布への信心があるところが、仏の国土なのだ。そこにこそ、大聖人の魂は、おわします」
「我々の五体そのものが、本来、御本尊と同じなのである。南無妙法蓮華経と認められた両側に、さまざまな菩薩の名が記されている。
それは、我々の生命のなかに、その菩薩の力があるということなのだ」
「御本尊を中心とした団結ほど、この世で強く、固く美しい団結はありません」

●だれもが等しく仏子であり宝塔
一、さらに、戸田先生の叫びを、心に刻んでおきたい。
「私たちには金剛不壊の御本尊がある。ゆえに、何を恐れることがあろうか。『魔の挑戦には、身命を賭して戦う』。ここに創価学会の使命があることを知らなくてはならない」
「われ自ら南無妙法蓮華経なりと決めきって、広宣流布することだ」
「御本尊を信じ、人生を生ききっていけ! これが一切だ。いくら愚痴をこぼしていても、つまらぬ事でくよくよしても、どうしようもないではないか。
御本尊に題目をあげて、自分の境遇で、自分の立場で生ききっていけ!」
まさに、このとおりの大確信で、先生は生き抜かれた。ゆえに、広布の基盤が、厳然と築かれたのである。
また先生は、次のようにも言われていた。
「将来のためにも、はっきり断言しておく。学会の信心以外に、大聖人の御心に適う信心はない。大御本尊の本当の功力もない」
「御本尊に裁かれることほど、この世で恐ろしいことはありません」
「誰もが等しく仏子である。また、宝塔である。これが、日蓮大聖人の大精神である。
それゆえに、万人を救うことのできる、真の世界宗教といえる。そして大聖人は、全人類を救済するために、大慈大悲をもって大御本尊を御図顕あそばされたのだ。
目的は、民衆の幸福だ。
この一点を見失えば、権威のための宗教になってしまう」

●「一閻浮提総与」が大聖人の精神
一、さて、学会本部の第2別館には、「賞本門事戒壇正本堂建立」と認められた御本尊が御安置されている。
御本尊の向かって左側には「昭和四十九年一月二日」の日付とともに「法華講総講頭 創価学会会長 池田大作」と、日達上人の筆で認められている。
まさしく、「本門事の戒壇」たる正本堂が、創価学会の三代によって「建立」された功労が、厳然と刻まれ留められた御本尊である。
これは、大聖人の御遺命を創価学会がすべて実現してきたという、あまりにも尊極な証しである。
この「本門事の戒壇」たる正本堂を日顕は破壊したのだ。仏法史上、これほどの悪逆はない。永劫に裁かれ、「若悩乱者頭破七分(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)」の断罪を受けていくことは、法華経と御書に説かれる通りだ。
真実の歴史を消し去ることは、未来永遠に、絶対にできない。「建立」の大功徳も、金剛にして不壊である。
「賞本門事戒壇正本堂建立」の御本尊は、その厳粛な証明である。
「一閻浮提総与」。すなわち、全世界の人々に授与する──これが大聖人の御精神である。大聖人直結の学会に怨嫉し、この「一閻浮提総与」の道を閉ざそうとしたのが邪宗門である。

●「一閻浮提総与」が大聖人の精神
一、さて、学会本部の第2別館には、「賞本門事戒壇正本堂建立」と認められた御本尊が御安置されている。
御本尊の向かって左側には「昭和四十九年一月二日」の日付とともに「法華講総講頭 創価学会会長 池田大作」と、日達上人の筆で認められている。
まさしく、「本門事の戒壇」たる正本堂が、創価学会の三代によって「建立」された功労が、厳然と刻まれ留められた御本尊である。
これは、大聖人の御遺命を創価学会がすべて実現してきたという、あまりにも尊極な証しである。
この「本門事の戒壇」たる正本堂を日顕は破壊したのだ。仏法史上、これほどの悪逆はない。永劫に裁かれ、「若悩乱者頭破七分(若し悩乱せん者は頭七分に破れん)」の断罪を受けていくことは、法華経と御書に説かれる通りだ。
真実の歴史を消し去ることは、未来永遠に、絶対にできない。「建立」の大功徳も、金剛にして不壊である。
「賞本門事戒壇正本堂建立」の御本尊は、その厳粛な証明である。
「一閻浮提総与」。すなわち、全世界の人々に授与する──これが大聖人の御精神である。大聖人直結の学会に怨嫉し、この「一閻浮提総与」の道を閉ざそうとしたのが邪宗門である。

●師と同じ心で
一、現代において、創価の三代の師弟は、大聖人の仰せのままに三類の強敵・三障四魔と戦い、すべてに勝ってきた。
反対に、正義の学会を弾圧した人間、大恩ある学会を裏切った人間たちが、どれほど無残な敗北の末路をたどっているか。
例外なく、「日蓮を怨ませ給いしかば我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う」(御書1093ページ)と仰せ通りの姿を示していることは、皆様がご存じの通りである。
戸田先生は叫ばれた。
「正義の学会を弾圧し、迫害し、愚弄した権力者は、永久に忘れてはならない。
とともに、善良な学会人を苦しめ、嘲笑い、侮辱してきた権力者を、断じて許してはならない。『仏法と申すは勝負をさきとし』である。
厳しき因果の実相を、明確に見抜き、そして圧倒的な創価の完勝をもって、末法万年尽未来際(=永遠の未来)への鑑としていくべきだ」
このご指導を、改めて確認しておきたい。
悪と戦ってこそ、正義は明らかになる。勝利の旗を打ち立てることができるのである。
戦うべき時に戦わない。戦えない。そんな情けない弟子であってはならない。

一、大聖人が、「仏法勝負」の勝ち戦の要諦として教えられた急所は、何か。
それは、毀誉褒貶の八風に侵されず、「師の言う通りに実践せよ」との一点である。
〈「八風」とは人の心を惑わす八つの働き。すなわち、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽のこと。
大聖人は「賢人とは、八風と言って、八種の風に侵されない人を賢人と言うのである」(同1151ページ、通解)と仰せである)
大聖人は、四条金吾に述べておられる。
「大学三郎殿や、池上右衛門大夫殿のことは、日蓮の言った通りにされたから、祈りが叶ったようです」(同ページ、通解)
正しい師匠に心を合わせ、師の仰せ通りに実践する。その一点から、すべての道が開ける。
同じ御書で大聖人は、「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(同ページ、通解)と、厳しく戒めておられる。

●一心不乱に! 真実の人生を
一、ともあれ、時代はますます乱世である。
大聖人は仰せである。
「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書1132ページ)
私も、妻も、この御聖訓を拝しつつ、大切な大切な全同志が、絶対に事件に巻き込まれたり、事故に遭われることのないよう、真剣に祈り抜いている。
すべてのリーダーの皆様も、どうか、そうあっていただきたい。
「自分中心」ではいけない。師匠に呼吸を合わせ、同志のことを真剣に考え、祈っていく。一つ一つ手を打っていく。
そして、学会の興隆を祈っていく。すべての勝利を祈り抜いていく。それが本当のリーダーである。

そして、わが門下生に「勝利は光、敗北は闇。人生は一心不乱に戦い勝つことだ。それが真実の人生だ」と申し上げ、私のスピーチとしたい。
長時間、ご苦労さま! きょうは、本当にありがとう!(大拍手)