投稿者:陽光メール 投稿日:2016年 4月10日(日)03時35分31秒   通報
大聖人様は、妙法尼御前御返事に「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと」と仰せです。若人も老人も女性も男性も金持ちも貧乏人も教養があろうとなかろうと、また、役職が上であろうと下であろうと、「時」が来れば誰しも一度は漏れなく通る道である。この人生を如何に生きたかの生き様が臨終の時にすべて現れると言う。「死」は自身の人生の総決算なのである。私は、先生の生死一大事血脈抄講義(最初の講義)を初めて読んだ時、身が震えるほど感動した事を覚えている。もう40年以上前の話である。その講義を読んで私の生死観が一変した。「人生において何が大事か、それは生きる目標であり、生死の問題であり、この根本議をはずして、いかに他事に心を奪われても,所詮それは空しい」と先生は言われた。

私は、この地域に約30年間住んでいる。その間、たくさんの学会員が亡くなっている。今まで30人ぐらいは亡くなっているものと思う。2007年3月4日に約2500SQFの新し会館に引っ越した。その前は、古く取り残されたような約800SQFの小さな旧会館だった。だから、もう10年前ぐらいの話になるけど、その年はたくさんのメンバーが亡くなった。こちらでメンバーが亡くなるとサンタモニカの本部へ通知を出す。その故人のメモリアル・サービスを会館で行う。

最初の2~3人のメモリアル・サービスの時は、本部からお花が理事長の名前で届いたものだ。オンラインで発注して出荷費用を含めて一回あたり$100前後はかかるものと思う。その年は8~9名のメンバー(もしくは家族)が亡くなった。広宣流布どころか亡くなる人の数の方が多かったものだ。本部も亡くなる人が多いため、経費節減のためか、その後本部からお花は届かなくなった。「地獄の沙汰も金次第」と言うが、そうなのだろうか。

その後も、草創期の多宝会の人達も段々と少なくなってきた。ある婦人部の方で結構裕福な方がいた。そのお方はお医者さんと結婚して、その檀那さんも亡くなったが多額の遺産も入り、何の不自由ない生活をしていた。人は年を取ると身体も不自由になって来る。ある時、そのお方が倒れられて、ナーシング・ホームに入るようになった。月々の支払いが相当高額のホームだった。何年も入っていると、出費も重なり、娘さんが彼女の家を売却して支払っていた。私達も時折、そこへ訪問して、彼女を車椅子に乗せ中庭に連れ出し一緒に勤行を何度もしたことがある。金額が高いナーシング・ホームといってもサービスが良いとは限らないのだ。何某の用がある時、呼びベルで呼び出してもナースはなかなか来ない。私がナース・ステーションまで行って、「すぐに来るよう」にと言っても、係のナースはテレビのメロ・ドラマを見ている途中で、それが終わるまで来ない時もある。

彼女は数年間そこで生活していたが、最後の2~3年ぐらいは、アルツハイマーにかかり、メンバーの名前さえも忘れていた。どういういうわけか私の名前だけは覚えていた。結局、亡くなり、葬儀は家族が決めるので、娘さんに「どうするか」と聞いたら、「キリスト教方式で行う」と言う。彼女の娘さんはがちがちのキリスト教の方と結婚していて、私達はその決定に従った。ところが、葬式の2日前に私に電話がかかってきて、SGIで葬儀をして欲しい、とのこと。私はすぐに手配をしてメンバーに連絡した。急な事ではあるが、50名ぐらいSGIメンバーが集まった。葬儀社に彼女の遺体が安置され、そこで読経・唱題をし、彼女の最後を見送った。その時、彼女の娘さん達の家族からは5人来ただけだった。学会という所は何かあるとすぐに人が集まり心からの題目を唱えることができるところであった。

彼女の中有に向かう臨終時に立ち会った訳ではないが、葬儀屋に安置されている化粧が施されている彼女の遺体を見て、やはり何か寂しい思いがした。御書に書いてあるような成仏の相ではなかった。彼女が生前時に御書等を良く一緒に学習していた。彼女の口癖で「陽光君、私は御書がすべて解った」とよく言っていた。私は「慢心を起こしてはいけない」旨を彼女に何度も注意したことがある。彼女はナーシング・ホームに入って信心は完全に忘れていた。人の葬儀に参加する時、いつも思うのは「この人はどのような人生を生きてきたか」と言う事が頭に飛来する。先生の講義の通りだな、と思う。良きにつけ悪しきにつけ、仏法が正しい事を証明するかのようだ。

こちらの本部(当時)で、約30名のメンバーが亡くなっているが、一人として成仏の相で幸福な境涯で亡くなったという事を聞いたことがない。私はすべての葬儀に参加したわけではないが、せめて5人の方の臨終の相は見ている。友達から他の人の相を聞いたこともある。真っ黒になって亡くなった元支部婦人部長さんもいる。亡くなって色白だったと聞いた人は一人いる。誰も家庭訪問に行かなかったので死んで1週間放置された人もいた。フロリダは夏は蒸し暑い所なので長く放置すると異臭が漂うのだ。仏道修行していても最終段階はあまり芳しくない人生の総決算をしている人が多く見られる。何故だろう。やはり個人の信心の問題なのだろうか。信心の血脈というより親分・子分で繋がっている形式上の信心を行ってきたためか。深く考えるとところが多々ある。

私は長年「生死」と言う事についてよく考えるようになった。持妙法華問答抄に「名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり」とある。仏法は厳しき因果の法則を教えた生命哲学である。昨今の学会は、対話のない問答無用の処分や村八分対応を平気で行っているが、この幹部達は果たして仏法を真面目に学んで実践しているのかと不思議に思う事がある。「雖学仏教・還同外見」とあるが、いわゆる「論語読みの論語知らず」だ。大聖人が教えられている厳しき三千羅列の因果の法則を少しでも勉強して心に刻めば、仏子を虐めたり、怨嫉や謗法が如何に怖いことであるか分かるのだが、そういう事は考えずに上から言われたまま従っているのだろうか。与同罪も考えたことはないのであろうか。

法華初心成仏抄には「能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」とある。結構怖い事を幹部の人達は知ってか知らずしてか身口意でやっているようだ。すべては自分自身の命に帰って来るのだ。新池御書には「王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争か名聞名利・我慢偏執有るべきや」と教えられているが、この身に起こるとも知らず、怖いとは思わない人が沢山いるようなので驚く。猿回しの猿のようなと言われているのだ。それよりも少々の難を受けたところで大聖人の教えのまま、創価三代会長の指導のままに生き抜いた方が遥かに価値的である事を知らしめることが一人立つ我々の仕事とも言える。