投稿者:陽光メール 投稿日:2016年 4月 8日(金)03時06分15秒   通報
■ “三類”との戦いに本源的な「人権闘争」

名誉会長: こうして見てくると、「法華経の行者」と、三類の強敵なかんずく「僭聖増上慢」は鮮やかなコントラストを示している。そのポイントは、「人間への尊敬」と「人間への軽蔑」です。その違いが、そのまま「人間のための宗教」と「権威のための宗教」の違いになる。また、「権力の魔性と戦う宗教」と「権力の魔性と結託する宗教」の違いになる。そして、「迫害を受ける、本物の宗教者」と、「人を迫害する、偽者の宗教者」との違いになる。

「人間への尊敬」の究極は、「万人が仏である」と礼拝する法華経の信念です。「人間への軽蔑」の究極は、人間をモノとして利用する権威・権力の魔性です。その根底には「元品の無明」がある。法華経を行じるとは、生命的に言えば、「元品の無明」との対決を意味する。社会的に言えば、権威・権力の魔性との対決を意味する。ゆえに大難は必然なのです。大難を受けないのは、本当の「法華経の行者」ではないのです。

名誉会長: 「私は人間を尊敬することを学んだ」 —- 素晴らしい言葉だね。人をどれだけ尊敬できるかで人間の真価は決まる。人を尊敬することが「人権」の出発点です。誰ひとりとして軽んじない。ここに仏法のヒューマニズムがあります。

名誉会長: 問題は、僭聖増上慢は、つねに“人権の味方”であり“民衆の味方”という仮面をかぶっていることです。だから、その本性を見破ることは決して容易ではない。

名誉会長: 悪を見抜くのは、行動する人です。戦う人です。かつて、ある青年が、牧口先生に、何が善で何が悪かをどうすれば判断できるようになるかと質問したことがある。牧口先生は「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、わかるようになる」と答えられたといいます。

名誉会長: いつの時代にも、多くの人にとって侵しがたいタブーがあるものです。権威ともいってよい。その仮面の陰に隠れるのが「僭聖」なのです。その「権威」は宗教とは限らない。時と場所によって変わるでしょう。それに伴って、僭聖増上慢の現れ方は変わりますが、方程式は同じです。つねに、その社会の“聖なるもの”を利用して法華経の行者を迫害するのです。

名誉会長: しかし、人々を幸福にするための経済が、いつしか経済発展そのものが目的となってしまった。「人間のための経済」ではなく、「経済のための人間」になってしまった。こうした転倒は、医療、学問、政治、科学、教育、その他、あらゆる場合に起こりうる。事実、起こっている。この転倒を、すべて「人間のため」に引き戻す“原点”が法華経なのです。

名誉会長: 「僭聖」の正体を民衆に暴くことが大事なのです。一部の人が目覚めただけでは、社会は変わりません。だから、行動を起こして僭聖増上慢をあぶり出すしかないのです。煎じ詰めれば、その社会の人々が、法華経の行者を捨てるか、僭聖増上慢を捨てるかです。 法華経の行者を捨てた社会は、僭聖増上慢に操られたまま、結局は亡国の道をたどっていかざるをえない。そうならないために闘うのです。「三類の強敵との戦い」は即「立正安国の戦い」なのです。