投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)12時02分40秒   通報
さて、遠い昔のインドで何不自由なく暮らしていた一国の王子(釈尊)が、
王宮の門の外で老人や病人、また死人や修行者に出会い、人生の生老病死を目の当たりにして
「人生の苦悩」に目を開き、出家を決意したという故事があります。(四門出遊〈しもんしゅつゆう〉)。

釈尊は人間の苦悩の解決のために、修行に励み、
わが身の振舞いを通して生老病死の解決法を示し切り、尊い生涯を終えました。
そしてその釈尊の「心」を弟子たちが法華経にまとめて後世に伝え残しました。

末法に出現した日蓮大聖人はその法華経をさらに昇華させた形で
「南無妙法蓮華経(ご本尊)」と表現を変え〝万人成仏〟の方途を示したのです。

これらのことから、すべての生命に貫かれているものが法華経だとすれば、
あとは何によって、その門に入るかという問題が残ります。

これを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

その前に、智慧第一と言われた「舎利弗」と愚鈍の代表格である「修利槃特」の
共通点は何であったのかを見ていきたいと思います・・・・と、

ここまで書き終えた時に、妻から反論がありました。

「ちょっと待ってよ、舎利弗と修利槃特に共通しているのは成仏した事だけじゃない。
それ以外に共通したところなんて何があるの。あとは全部、正反対じゃないの」と。

妻の言ったことをまとめると、

①舎利弗は智慧第一、修利槃特は愚鈍第一
②舎利弗に対して師匠は厳しい態度だった、修利槃特に対して師匠はやさしい態度だった。
③舎利弗は他の弟子からも人気があった、修利槃特は他の弟子からはバカにされた。

確かに妻の言う通り、成仏した以外は正反対だったかも知れません。

しかし、結論を急がず、もう少しじっくり考えていきたいと思います。