投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)12時03分22秒   通報
法華経「方便品第二」の対告衆は舎利弗ですが、
確かに師匠は舎利弗に対して厳しい態度で接しています。

その内容を要約すると

「舎利弗よ、よく聞け。仏の智慧は甚深無量でいまだかつて聞いたことのない無量無辺の未曾有の法である。
仏の智慧を理解するのは難解で、智慧の門に入るのは難しい。一切の二乗(声聞・縁覚)が知ることのできないものである」と、

仏の境涯をさんざん賛嘆したのち、二乗の代表である舎利弗を徹底的に叱り飛ばしています。

これまでも釈尊は、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の人は皆、もろもろの執着を離れて、
もう世の中はこれでいいのだと思いこんでいる。三乗の境涯のままでいいのだと満足している。

しかし、違うのだ。

あらゆる仏が出現するのは、君たち三乗や万人がもともと持っている仏知見を開いてやろう、
悟らしてやろう、そしてそれを示して仏の境涯に入らしてやろう(開示悟入)として生まれてきたのだ。

だからまず仏の智慧を賛嘆し、それから君たちを導くのだ。
君たちみたいな者が何億人集まっても仏の智慧はわからない――。

そして「止めよ、舎利弗よ。もう法は説かない。なぜなら仏が成就したのは
稀有にして難解な第一の法であり、ただ仏と仏だけが『諸法の実相』を究め尽くしているからである」

と説きます。

これを聞いて舎利弗はやっと理解できたのです。
舎利弗は「師匠よ、やっとわかりました。そんなに偉大な法があるのですから、私はその偉大な法を信じます」と。

これを以信得入(いしんとくにゅう)、〝信をもって入ることを得たり〟といいます。

舎利弗と修利槃特の最大の共通点は「信心」です。
信ずる心をもっていたがゆえに、成仏することができたのです。

そしてそれは〝信ずる心〟をもって入らなければ、
法華経の心を会得することは絶対にできないということでもあるのです。