投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月27日(月)12時01分59秒   通報
日蓮仏法を信仰し、日蓮教学を真剣に学んでいこうと志ざす人には、
大なり小なり、そこにいたる道程と動機があるものです。

ある日、もっとも尊敬する先輩から自身の体験を通して、その道程と動機を教えて頂いたことがありました。

先輩は言います。
「わが家は親の代から学会員で、自分も人生の苦難に何度も合ったが、
すべて信心を奮い起こして挑戦し、乗り越えてきた。そんな矢先に待望の子供が障害者として生まれた。

この日以来、日蓮仏法を真剣に学び、人生をかけて子供の幸福(成仏)を思索してきた。
そして答えが見つかった。今ならはっきりわかる。結局、教学は人生の苦難のなかでしか深まらない」と。

先輩の体験を聞いた時に、本当にこの先輩は教学を学び終え、それを実践に移している偉大な人だなと感動したものです。

というのは、グリグリの身内にも重度の障害者がいたからです。
一口に障害者といっても、いろんな人がいます。

目が見えない盲目の人、耳が聞こえず、はっきり言葉として話せない人、
背の低い人から足の不自由な人、そして背骨が弓状に盛り上がり湾曲した人等々――。

詳細は書けませんが、身内の障害者は目と耳と脳は正常なのですが、後はすべてダメなのです。
身体を自分で自由に動かすことが出来ず、常にオシメを着用し、食事も一人で食すことが不可能なので、
身体を横にして誰かがスプンで口に運ぶしか食べる方法がない。

そして当然、しゃべることが出来ないので文字盤を指で押さえて自分の意思を伝えます。
健常者ならば、十秒で人に伝えられることも身内の障害者は五分十分かかります。

手を自由に動かせないながらも必死で文字盤を押さえて意思を伝える方も、
それを確認しながら必死で理解しようとする方も共に根気のいる作業です。

グリグリが教学を極めようと決意したきっかけの一つは、そんな障害者が身内にいたからかもしれません。

その身内も学会員で、親は重度障害児の子を小さい頃から厳しく育てていました。
正確に南無妙法蓮華経と発音できない子供をご本尊の前に座らせ

「いいかい、子供よ、お前は口と身体はダメだが、目と耳は正常だ。
だから口で題目を唱えなくてもいいから、しっかりその目でご本尊を見て、心で題目を唱えなさい。
そして、もしも教学の話をしてくれる人が現れたら、しっかりその耳で聞きなさい」――こう言い聞かせていました。

そんな子供も成人し、今では電気式車イスで障害者が集まる作業所に通い仕事をしています。
親は亡くなる前の枕元でグリグリにこう言いました。

「子供に仏法の偉大さを話してやってくれ、たのむ・・・・」と。

まもなく親は霊山に旅立ちました。先輩の体験を聞いて、そんなことを思い出したのです。