投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月 9日(水)00時31分30秒   通報

多様性万歳様

>貴方が、今の学会には「大聖人の精神」「池田先生の精神」「会員の幸福」がないと思うのであれば、貴方が組織の中で死にものぐるいで戦って、学会の中に「大聖人の精神」「池田先生の精神」「会員の幸福」を勝ち取ればいいではないですか。「創価学会を護る」とは、そういうことです。<

結論的にはおっしゃる通りなのですが、この言葉は、師弟関係があるか、信頼関係があるか、指導を求めているかのどれかに該当しなければ、言わないほうがいい台詞だと思います。戸田先生が池田先生に指導された内容、即ち、「君自身が、本当に好きな学会をつくればよいではないか」が組織改革の根本であることは重々承知しています。しかし、この指導を利用する幹部もいます。それは、然るべき立場にも関わらず、「そんなに言うなら自分自身でつくればいいではないか」と先生の指導を持ち出し、責任丸投げの、何もしないズルい幹部もいるのです。ここが要注意です。

人は正しいから動くのではありません。人が動く要諦は、触発・納得・感動です。その根底には、共感と同苦がなければなりません。このことがわからなければ、真のリーダーにはなれません。「自分で勝ち取れ」というのは、そもそもが上から目線の言葉です。本来他人がどうこういう言葉でもなく、「自覚」の問題です。ある意味、言ってはいけない言葉であり、無慈悲でもあるのです。戸田先生と池田先生という厳格な師弟関係と信頼関係があったればこそ成立することであり、同志間においては、慎んだほうがいいでしょう。

「自分で勝ち取れ」は、私個人としては、「それを言ったらおしまい」の台詞だと思っています。その根底には、「つべこべ言わずに行動しろ」が内包されていることが多く、ただの感情論の場合があるからです。共感でも同苦でもなく、イライラであり、他人に厳しい姿勢。そういう人は、自分では何もやらない(自分はやっていると思い込んでいる)。この微妙な一念のズレが、会員を苦しめることになることを知っているからです。

ともあれ仏法は一念の世界ですので、同じ言葉であっても、根底の一念がズレていたらダメになります。それはもちろん、悪を責める際にも言えることです。学会を護る一念か壊す一念かで、変わってきます。多様性万歳様には、宿坊の掲示板は一体どのように映っているのでしょうか。前提が違うと、話も噛み合わなくなります。