投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月 7日(月)08時46分55秒

多様性万歳様

>「悪と戦う」という時の、
何が悪なのか、誰が悪なのか、具体的に教えて欲しいと思います。<

悪を生み出す根源は、「弱さ」であり、その弱さが魔となって現れる。実に魔の正体とは、自身の弱さに他ならない。この考えに立つと、すべてが明らかになります。54年の「時流には逆らない」という言葉も、根底にあるのは弱さです。また、退転・反逆者の根底も弱さであり、それは自身の弱さを認めることができなかったからです。自身が弱いことを知っている人が本当に強い人であり、弱さを知っているからこそ優しく謙虚になれる。反対に弱さを知らない、向き合わない人は傲慢であり、そこから増上慢へと変貌していく。提婆達多も自身の弱さを認めることができたのなら、きっと違った結果となっていたことでしょう。

信心の異名は「勇気」です。それは弱さへの挑戦であり、戦いです。悪(弱さ)はいたるところに蔓延っています。いじめやパワハラ、差別等の社会悪の根底も弱さであり、学会内の官僚主義、組織主義も弱さです。人を悩ませ、苦しめる人は弱いのです。信心とは、題目を唱えることによって、自身の弱さに立ち向かっていく生命力を引き出すこと。よって、誰が悪かを問うならば、「自分自身」に他ならない。

御書P762
「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」

この「滅する」という言葉に重要な意味があります。滅するとは微塵も残さないことであり、100%です。悪との戦いにおいては、この一念がなければ断ち切ることはできない。そして、学会を護るのもこの一念でなければ無理です。リーダーであるのなら、悪を滅する一念でなければ会員は護れない。悪に対しての優しさ(慈母)は、結果的に悪を増長させる。ここが曖昧でわからないからこそ、学会は官僚主義と組織主義に陥ってしまっているのです。

学会を護るとは何か。それは学会精神を護るということです。学会精神とは牧口先生の殉教の精神です。もしも牧口先生が、「会員が動揺するといけないので」という一念であったのなら、神札を一時的に受け入れてしまっていたことでしょう。そうすれば逮捕されることもなく、宗門との関係もこじれることもなく、会員も安堵し、学会が壊滅状態になることも免れていたと思います。だが、この発想は悪(弱さ)です。仏法は一念の因果ですので、牧口先生が組織ではなく、「大聖人の魂」を護ったからこそ今日の大創価学会へと発展したのです。逆に、組織を護ることを第一にしていたら、学会はとっくになくなっていたことでしょう。

自分の悪(弱さ)を正当化するために学会を護る(という言葉をつかう)のか。それとも本当に学会を護るのか。問われているのはこの一念です。そしてこれは紙一重であり、紛らわしいのです。しかし、自身をごまかすことだけは出来ない。私はごまかしの幹部を沢山見てきました。ごまかしの幹部が決まって言う台詞は、「いろいろあるけど頑張ろうな」であり、結果、「何もしない」のです。こうしていつまで経っても組織悪を断ち切ることのできない現実が続くわけです。

悪(弱さ)を滅する一念があるかないか。なければ慈悲魔に負けます。それは特定の誰かを悪とするのではなく、自身の中にあるかないかです。悪を滅するという前提がなければ、すべてが食い違ってしまう。54年は、弟子のあまりのレベルの低さに先生が呆れた歴史でしょう。大事なこと(学会精神)が全然伝わっていなかったことに、さぞがっかりされたことでしょう。だからこそもう一度自身の手で学会を創り直すしかなかった。そのために、自ら指揮を執られ、スピーチを通し、学会精神を伝えていかれた。これが先生の、学会内に蔓延る悪(弱さ)との戦いだったのだと思います。

会員の声に耳を傾けられないのも悪(弱さ)です。悪を滅する一念が仏の一念です。そしてそれが、真の池田門下の一念です。池田先生は、「本物の一人が残ればいい」と言われています。どうかこの意味を、しっかり考えてみて下さい。戸田先生は、「臆病者は去れ」と言われました。この意味もまた考えてみて下さい。創価学会は烏合の衆ではなく、獅子の集まり(のはず)です。

悪を滅する一念があった上で、現実の悪との戦いはどうするのか。直接的に戦うこともあり、間接的に戦うことありのケースバイケースです。決して画一的に捉える必要はありません。一番価値的な方法を選んでいくことが智慧です。それこそが「悪と戦う技術」なのです。