投稿者:アルベア 投稿日:2016年 3月 3日(木)09時07分59秒

聖教珍聞 2

聖教本社の記者の面々・故教学部長等との取材を終えての懇談の語らいをお伝えしておく。

取材依頼のテーマから、あらかじめ取材記事を書き、当日に記者にわたしたら、「表現が難しい

ですね。聖教は一般の人を相手にしています。具体的には普通高校の中程度の方々が理解できる

レベルで対応していますので、ここと、ここ、わかりやすく訂正して下さい」とのこと。「文章

レベルが大卒レベルなので理解できない」という旨であった。当時、聖教本社の中心的な記者で

あった。読者を馬鹿にしている。なんと傲慢な編集方針なのか、言われるままに訂正した記事が

掲載された。54年以降、読者に誤解を与えずに、わかりやすくという方針だった。

教学レベルの低下についての語らいの時、「教学の昇格試験は、人数が多く対応できないのが現

状で」とのことを聞き創価教学の質的低下を危惧した、現在が質的低下の現象が出てきているの

である。

このころ池田先生は、人間革命や音声中継で「官僚主義」についての指導がたびたびなされてい

た。現場でのたたき上げの世代が不在であることを見抜かれていたのである。大きく発展するた

めの作用反作用である。この反作用をどうすればいいのか、「不二」になるしかないということ

に明確に気づいたころであった。

「池田先生の生命論をどう展開すればいいのか」それなりの語らいであったが、物事を対象化

し、思考する方々の本質から「これは無理」「池田思想を学ぶ」「池田哲学の体系化」等など対

象化し概念化する操作主義の官僚にはできない」と感じた。この語らいから10年たったころ、中

国の大学での研究会が次々誕生したのである。本来は創大、または東哲で行うべき課題であると

思っていたが・・・池田先生への一極集中を避ける愚考ゆえのものであった。

官僚主義は権力者の統治にために必要なことではあるが「民衆のため」という目的が建て前、ス

ローガン化してしまうのである。ここの「あやうさ」がわからない、気づけない、というのは仏

法の体感・体験が希薄であることを示していると言える。人はいつしか自分自身の都合、思惑に

より、正直さ素直さを忘れる。

彼らの気づきはこの世を去った後に気づいていたのである。ここまで見通す体感・体験がないと

いうことだ。

官僚主義と言う統治システムは常に存在する支配的なパワーなのである。

官僚主義という魔物の働きは、聖教読者への軽蔑・冒涜となって現れている。同心円・人間学な

どと用語をいろいろ使い展開しても、体感・体験があってのこと、知識があっても同心円・人間

主義の現象化とはならない。

おごり、たかぶり、という現象は、同苦、共感・という体験現象が「モノ化」しているゆえに反

作用として現れているのだ。信仰・信心の「純粋性」を常に自らに問いかけながら意識していか

ないと官僚主義というパワーにはじかれる。はじかれている面々が現行の方々の姿なのだ。

様々な創価を取り巻く状況は信仰・信心の「純粋性」へと促すため、「気づく」ための現象でも

あるのだ。