2016年2月12日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月12日(金)22時50分14秒 人間革命三巻 道程の章より 森川一正「座談会は雰囲気が大事ですね。初めて来た人たちを馬鹿にするようなことを言ったら、マイナスじゃないですか」 幹部「批判か?まァ、いまにわかるよ」 ::::: これは、森川一正が、座談会に友人を連れだしたところ、幹部がその友人をズケズケと問いつめ、「俺は恥をかきに来たのではない。森川、一体どうしてくれるんだ」と、友人は怒り心頭に。それにたいして、森川は幹部に腹を立てて、ひいては学会が無性に嫌いになった。その夜、中々寝付けなかった森川は、うとうとしていたが、コタツを入れていた蒲団に火が付き、危うく火事になりかけた。この時、森川は思った。「これが現証ということなのか。罰ではなかろうか。」「怨嫉というやつかもしれない」と。 この章では、正しい意見と批判とは、本質的にどう違うのかという問題提起がなされている。それに対する答えは明記されてはいないが、考察する価値は十分あると思います。宿坊の掲示板に対する懸念の声として、「それは怨嫉なのではないか?」ということが挙げられると思います。悪と戦うのは仏の心だが、怨嫉は魔の心である。これは似て非なるものであるが、見分けがつき辛い。賢明でなければこれらがすべてごっちゃに見えてしまう。 怨嫉とは、「正法を実践する者をうらみ、ねたむこと」が基本的な定義である。三巻の注解では、「正法を説く人にすっきりした気持ちで会えないことを怨といい、その説法を聞くのを喜ばないことを嫉という」とある。怨嫉という言葉は実に奥が深い。学会員のメンタリティには怨嫉への恐怖があり、それがかえって悪と戦う力を削いでしまう側面がある。同志批判は御法度であり、例え悪い幹部がいたとしても、「同志だから」と許してしまう。その根底には、批判(怨嫉)はダメであるという縛りではないか。 怨嫉という問題をクリアーにできなければ、内部の悪とは戦えない。組織が仏敵認定してくれるほど甘い世界ではないからだ。皆から尊敬され、生き仏(真の弟子)のように見られている人間の中に魔王はいる。魔王が一番恐れることは、自身の正体を見破られることである。それをいかに阻止するか。それは学会員の一番弱い言葉、「怨嫉」を用いることが有効だ。即ち、「怨嫉はあなたのためにならない」と、あたかも親身になっているふりをし、その本当の目的は、悪と戦う心を削ぐことにある。これが魔の心である。 恨みや妬みが根底なのか、それとも慈悲が根底なのか。常に問われるのは自身の一念である。ここに仏法の厳しさがあります。森川一正は、別段間違った指摘をしたわけではないが、それでも怨嫉が根底だったから罰を受けた。仏法は行動が正しければいいわけではなく、肝心要は一念である。どこまでいっても自身の一念を観ていくことが観心であり、仏法者というもの。自身の一念だけは絶対にごまかせず、繕うことはできない。怨嫉というエゴを越えて、悪と戦うことが日蓮仏法なのである。 Tweet