2016年2月9日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月 9日(火)13時49分4秒 通報 議員は国民の公僕であり家来である。この前提が覆され、いつの間にか議員が、「偉い存在」となるところから、転倒がはじまる。絶対に議員を偉くさせてはいけないし、微塵も威張らせてはならない。学会が支援をするということは、勘違いした議員の転倒を糾すことが目的でもある。よって、学会における支援活動のスタンスは常に上から目線、つまり、「支援してあげている」なのである。 現在の創価学会は、支援は自由と標榜しながら、一方では、細かく報告を取っている。自由であるといいつつ、報告という縛りを入れてしまうと、そこに自由はなくなる。この在り方というのは、数十年変わっていない。システムがバージョンアップされていないということだ。公明党が結党されてからすでに50年、いつまでこの段階の活動をさせる気なのだろうか。創価学会総体として、惰性の活動をしているのではないか。 選挙で落選しようと、それは候補者や党の力量不足でしかない。主人がわざわざ家来を応援してあげているのに、落選とは何事か。また、家来のくせに傲慢になり、不祥事を起こしたりするのは言語道断だ。主人である我々は、絶えず家来が国民のために尽くしているかどうかを監視していく必要がある。戸田先生の言である、「政治を心して監視せよ」とはそういうことである。おかしな言動をするものなら、叱り飛ばすのは当然である。家来ごときに主導権などあるわけがなく、その辺りの立場を弁えず、調子こいた議員が出たのならば、制裁を加えるのが主人の務めというものだ。 政治と権力はセットである。権力の魔性が渦巻く世界に家来を放り込むということは、諸刃の剣でもある。家来がいつ暴走し、おかしな道へと転落するかはわからず、紙一重である。家来である議員は、頑張って当たり前であり、主人を満足させなければならない。少しでも調子こくものなら、即、呵責である。それが家来を守ることにもなる。 創価学会の活動の中心が、支援活動となっていることは痛恨の極みである。政治信条によって、支援したくない人は、学会活動できない状況に追い込まれたり、悶々としながらの活動を強いられる。大切な会員が嫌な思いをし、苦しむようなことがあってはならない。「会員第一」の学会においては致命的である。事実、私の周りにも、支援活動に疑問を持つ人が多々いる。また、多くの人材が支援活動を機に、学会活動から身を引いていった事実もある。こういった根っこの問題こそが、はるかに深刻であり、仏法者ならば見過ごすことのできないことである。厳しく言うのならば、支援活動は学会員を利用している側面がある。大切な会員を不必要に苦しめるのは悪である。ここまで言い切らなければ、会員は守ることはできない。 支援政党が、国民を欺いていると判断したのならば、即座に支援を中止するのは当然である。それは個々人の判断に任せられる。政治は結果責任であり、どれだけ善人であろうとも、結果的に悪法をつくったのならば悪である。政治に関しては、慈母ではなく、厳父でなければならない。「いい人だから」、「まじめだから」では弱すぎる。頑張っていればいいわけではなく、結果がすべてなのが政治の世界である。政治を心して監視するとは、一人ひとりが自立し、考え、決して多数派同調バイアスに流されないということである。創価学会(池田門下)は、多数派に安易に流される羊の群れではないはずだ。あくまでも一人立つ、獅子の集団なのである。 Tweet