2016年1月24日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月24日(日)09時24分7秒 通報 室町後期から江戸初期にかけて、日蓮教団もさまざまな門流に分派し、 大きく分けて「勝劣派」「一致派」など、それぞれの学派が教義論争に明け暮れ、 日寛の時代になると「身延派」「富士派」「八品派」などの学派が“日蓮教学”の法門をまとめた論文や法義書を著し、 大石寺貫主のなかにも邪義(釈尊の仏像本尊)を唱える者が現れました。 そもそも日興が身延を離山し、富士に来たのは身延の地頭が釈尊の仏像を本尊としたことにあります。 そして日興は地頭を強く批判し、大聖人が図顕した曼荼羅本尊のみが信仰の根本であると主張しています。 釈尊の仏像を本尊とすることは、日蓮日興に背く大謗法なのです。 まさに日興が危惧していた「仏法に相違して己義を構える」貫主が出現したのです。 しかし当時の宗門には、おかしいと批判する声はあがっても「用いてはならない謗法だ」と 貫主を強く呵責する信心のある者はいなかったのです。 大聖人滅後、四百年を過ぎたころの大石寺はまさに法滅状態そのものでした。 こうした時代背景の中で、日寛も日蓮教学の研究に励み、後に大石寺の学頭に招かれ、 門流独自の立場から御書講義を行うなかで二十六世の法を継いでいます。 日寛は日蓮宗各派の教学振興の気運が高まるなかで自らも大石寺教学の確立を目指し、 そこから門流秘伝の「三大秘法義」を理論的に体系化する必然性を感じていたのだろうと思います。 しかし、それ以外にも自門流の秘伝を公開した諸事情がありました。 それは日蓮宗各派の教学論議で大石寺の教義からみれば、絶対に妥協できない邪論が横行するようになっていたからです。 Tweet