2016年1月13日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月13日(水)10時18分36秒 通報 南三北七の諸家が釈尊一代の説法のうち、何が最高のものであるかに迷っていたときに、天台大師が登場します。 南岳大師に師事していた天台は「法華経」が最も第一の経典であることを生涯説き続けました。 南三北七の諸家の教判では、華厳経や涅槃経が上位におかれていて法華経は第三の位置に落とされていました。 それに対して、天台はまったく新たな教判(五時八教)をもって、法華経こそが第一であると主張します。 天台は仏説にまかせて法華経が最高第一であることを知らしめるために、 南北の全仏教者を向こうにまわして獅子奮迅の戦いを展開しなければなりませんでした。 おそらくこの主張は、孤立無援の懸命な戦いであったと容易に想像がつきます。 天台の教判は膨大な仏典の密林に分け入る方法論であり、羅針盤であったといえるでしょう。 しかし、天台は教判のみにとどまっていたのではなく、彼がもっとも力を入れたのは、 後世“天台の三大部”として知られる法華経を中心とした理論体系の構築にあったのです。 後に「法華玄義・法華文句・摩訶止観」である三大部を筆録した弟子の章安大師は、 もともとは天台の涅槃経講義を聴聞したいために、天台の門に入ったといわれています。 その彼が涅槃経よりも法華経のほうが勝っていることを知った一事をみても、天台の与えた影響力の大きさがうかがえます。 天台大師は像法時代において「権実相対」の戦いを展開し、 “鳩摩羅什”以後の中国仏教界をさらに大きく変革していった人物といえるでしょう。 Tweet