2016年1月13日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月13日(水)10時17分50秒 通報 繰り返しになりますが、 インドでは釈尊滅後、初期教団の経典結集から始まり、アビダルマ研究による小乗論集、 そして大乗仏教の興起へと、教義的にも順を追って深まり発展していった歴史があります。 一方、中国では経典伝播の過程で、経典成立の先後や高低にまったく関係なく大乗も小乗も別々に、 しかも時には順序も逆になって仏教が伝わってきた歴史的経緯がありました。 ここに中国仏教界における混乱の一因があったと思うのです。 そういうなかで西域地方から来た「鳩摩羅什」の登場によって、釈尊一代の説法のなかにも それぞれ教相の“先後・浅深・高低・優劣”があることを教えられた中国の仏教界は、 いよいよ第二期(第一期、竜樹)の学派時代に入っていったのです。 南三北七といって南方と北方に各学派が成立しそれぞれが自派の「教相判釈」を競っていた時代です。 それぞれの学派が膨大な仏典のなかで、釈尊の根本精神はどこにあるのかを真剣に研究していました。 この頃はまだ、一宗一派に固定していない状態ですから、 南北の交流もあり優秀な学僧は優れた師を求めて各地を修行して歩いていました。 そこに南岳大師や天台大師が出現する基盤や、どこまでも真実を求めていこうとする精神の自由があったと考えられます。 Tweet