2016年1月12日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月12日(火)11時04分21秒 通報 編集済 それに対して、大乗教徒は経典の文言にとらわれるのではなく、 立体的にして融通のきく立場に立ち、釈尊本来の精神に立ち返って経文を解釈しました。 ちょうどその頃、バラモン勢力の影響もあって小乗教団は経典のサンスクリット(梵語)化を進めていました。 しかしこれは釈尊が生前に禁じていたことです。 釈尊は仏教が特権階級の専有物ではなく、広く一般大衆にも開かれたものであるとして、 各地の巡行にあたっても平易な言葉で語りかけています。 その釈尊の精神を受け継ごうとする弟子たちが、小乗教徒とは別に、 各地に散って平易な仏教物語を説いていったと思うのです。 法華経をはじめとして、民衆にもわかりやすい譬喩や文学的表現が多いのもこのためかと思います。 その運動の重要な担い手となったのが在家の菩薩です。 そして、仏滅後七百年ごろに南インドに“竜樹”があらわれ大乗教を体系化して大いに宣揚しました。 さらに仏滅後九百年ごろに“天親(世親)”があらわれ仏教思想を教学的に体系化しました。 もし、竜樹や天親が出現しなかったら中国にしても日本にしても、 釈尊の八万法蔵の教えが入り乱れてしまったまま伝わり収拾がつかなかったかも知れません。 竜樹は後世になって「八宗の祖師」と呼ばれるようになるのですが、 竜樹はインドで著された小乗経典・大乗経典をきちんと整理し、 とくに大乗仏教がいち早く中国・日本に伝わるような基盤を築いた人物といえるでしょう。 これは仏教の“三時”である正法時代(千年)に、インドで「内外相対」「大小相対」の実践が成されたことになります。 ・・・つづく Tweet