投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年11月25日(水)14時23分53秒   通報

大聖人は、法華経の万人尊敬の精神を破壊する者に対しては、
一切の妥協なく、徹底的に戦うべきことを述べられ

「あるいは責め、あるいは流罪し、あるいは布施を止め、あるいは頸をはねるべきだ」(一四六六頁)

とまで訴えています。もちろん、文字通りの処刑を望まれたのではありません。

むしろ、万人の幸福と平和な社会の実現のために命懸けで戦った大聖人を、
当時の権力者と民衆は、責め、流罪し、頸をはねようとしたのです。

権力者がそのような厳しい態度を大聖人に取るというならば「その相手が違うではないか」との痛烈な諌暁です。

これは民衆の代表であるべき為政者が「正邪を峻別する態度を取らなければ亡国は間違いない」と、
あえて指導者を覚醒させるために警鐘を鳴らされたと考えられます。

つまり、智人の言葉を用いる賢王であれと、権力を持つ者を厳しく戒めたのです。

そしてこの御文は、このような時こそ、仏の智慧をもった「智人」が出現し
「賢王」と力を合わせて悪を根源から断ち、いよいよ世界広宣流布が実現する時であるとの師子吼だと思います。

つまり、仏法の「智慧」が一人の真実の智者を通して、社会の中で民衆を救う「力」となって
変革の渦を巻き起こしていくことができるとの大確信です。

それが末法の民衆を貧瞋癡の大悪から救う唯一の道なのです。

ここでいう「賢王」とは、智人を理解する社会的存在です。
現在の民主主義社会の時代にあっては、まさしく賢明な民衆であり、
民衆自身が賢くなることこそが、安穏な社会を築くための必須条件です。

民衆が賢明になり、社会の中で「生命尊厳の思想」「絶対平和の思想」が広く定着していけば、
民衆を苦しめる「差別」や「戦争」を引き起こすエゴの思想が民衆によって拒否されます。

民衆自身の手で魔性を封じ込め、善の連帯を築くことが、
現代の《智人と賢王の出現》の意義に通ずるものだと思います。

このあと、大聖人は法華経の「諸法実相」、そして「一念三千」を取り上げて「智人・智者」の本質を究明していきます。

「諸法実相」とは端的にいうと、仏の智慧が如実に知見した現実世界の真を姿です。

仏の智慧は、目に見える表面的な現象だけでなく、
十界の衆生がそれぞれ生きている善悪の境涯とその因果を如実に知見していきます。

善の根本である「法性」と、悪の根本である「無明」を覚知し、
そこから生じる現実社会の善悪・苦楽を熟知した人が仏です。

だから仏法は、必然的に悪の流転から善の軌道への転換を説く「変革の宗教」になるのです。