2015年10月22日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月22日(木)16時07分2秒 通報 そして最後に大聖人の大確信が述べられます。 それが「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(同頁)です。 一般的な言い方でいえば、道理とは「スジ論」です。 人間としての道理(スジ)、人間の正しい生き方のスジを通す――。 仏法を突き詰めて考えていけば、結局は、人間としての道理を教え、 その道理を裏付ける生命の法則を究め尽くしたものだと思います。 だから、人間としての道理をはずれた考え方は、仏法の哲理にもかなっていないと考えます。 歴史を紐解けば、宗教が堕落した根本原因は、法の高低浅深の問題よりも先に、 宗教の権威をカサに着た指導者の、道理を無視した横暴にあるといっても過言ではありません。 宗教的権威を持つことによって、自分は特別な存在だと錯覚し、 自分の欲望や妄想さえも押し通すことが許されると思い込んで、 他人を抑圧し、信者の真心を踏みにじり、 同志を犠牲にして恥じない人権感覚――この生命尊厳に対する人権蹂躙は、非道の典型です。 宗教は本来、「人間宗」ともいうべきあらゆる人間の人権を守り、 道理を重んじ、非道を排除する戦いが、宗教の使命だったはずです。 「主」とは、端的にいえば、人間を支配し、人間を手段化する権力者としての性質です。 その権力がいかに強大であろうとも、人間の道理を無視した場合には、 絶対に仏法の道理に勝つことはできない、というのが大聖人の大確信です。 「いかに愛おしい妻と離れたくないと思っても、死んでしまえば離れざるをえない。 いかに所領を惜しいと思っても、死ねば他人のものとなってしまう。 あなたは所領をいただき、すでに栄えて年久しい。少しも領地など惜しむ心があってはならない(通解)」(同頁)――と。 妻に対する愛着も、財産に対する執着も、 これらはいずれも今世かぎりのものであり、死後には何の役にも立たない。 死に直面したときは己一人です。 そのときになって、支えになるものは、自身の内に秘めた信念と勇気と力だけかもしれません。 しかし、信心を貫くかどうかという瀬戸際に立ったならば、 猛然と執着を捨てて乗り越えていきなさい、という厳しい指導です。 この厳愛の指導を、四条金吾は全身全霊で受け止め、貫き通していきました。 Tweet