投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月 7日(水)16時27分38秒   通報

もう一つ、この二つの譬喩に共通するものは、「志ざし」ではないかと思う。

お手紙(白米一俵御書)には

「凡夫は志ざしと申す文字を心へて、仏になり候なり。
志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり」(p1596)とあります。

私たち凡夫が、仏の生命を涌現して幸福になり、万人を救っていくために、もっとも心すべきは「志ざし」です。

その「志ざし」を突き詰めて考えていけば「信心」ではないのか、ということです。

しかし大聖人は、何時《時》、誰《仏》に、何《身供養》をするかは「時」がもっとも大事と述べられています。

今度はこの「時」について考えていきましょう。

日蓮大聖人は、南条時光の供養を機縁として、
弟子に「一切の事は時による事」(p1561)の重要性を教えました。

また、五大部の一つである「撰時抄」にも
「夫れ仏法を学せん法は、必ず先づ時をならうべし」(p256)と、
時の重要性を詳細に述べています。

大聖人は、伊豆流罪中、「教機時国抄」を著し、
その中で、教・機・時・国・教法流布の先後という「五義」を示し、
「法華経の行者」と定義付けました。