2015年10月7日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年10月 7日(水)16時26分52秒 通報 しかし、この二つの譬喩の対比と、同じ年(弘安二年)に、同じ人(南条時光)に書かれた お手紙(白米一俵御書)を通して読み合わせてみると以外なことに気付きます。 では、それを見ていきましょう。 まず、乞食行をしていた釈尊にとって、 砂の餅を供養してもらっても「砂の餅」など釈尊には何の役にも立ちません。 むしろ「お前はふざけているのか」となりそうです。 しかし徳勝童子は、その供養の功徳によって「大王」となった、といいます。 そして「玉をまいらせて地獄へゆく」 ――玉を供養したために地獄に行く――(通解)という例もあると述べられています。 「玉」とは何かということですが、普通考えられるのは「高価な物」「高貴な物」と捉えられますが、 この世で最高の宝(玉)とは「命」ではないかと思います。 大聖人もお手紙(白米一俵御書)の中で 「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(p1596)と述べています。 このもっとも大切な、一切の財の中の第一の財である「命」を差し出すことによって、 「地獄へ行く」とは、どういうことなのでしょうか。 お手紙(白米一俵御書)には「雪山童子の身を鬼にたびて候」(p1597)とあります。 雪山童子の説話は、皆さんよくご存知なので詳細は省きますが、 雪山童子は自分自身のためだけではなく、後世の人々のために鬼から仏の言葉を教えてもらい 書き残そうとします。 しかし、雪山童子に教えるために鬼は一つの条件を出しました。 それは、仏の言葉を教えるかわりに、教えたのち、雪山童子の身を食らうというものでした。 雪山童子はその条件を聞いてどうしたのでしょうか。 雪山童子は、仏の言葉が聞けるなら、仏の言葉を後世の人々に書き残せるなら、 これほどの喜びはない、と喜んで身を投げ、地獄に行こうとしたのです。 これが「玉をまいらせて地獄へゆく」ではないかと考えます。 Tweet