2015年10月30日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年10月30日(金)10時18分45秒 通報 >「スッキリした戦いなんか無いんだよ。 悩みながらスッキリしないまま それでも結果を出すのが一流」< たしかに如何なる状況であれ、結果を出すことは素晴らしく、一流でしょう。スッキリするとは、自分自身の感情であり、それを一歩越えた境涯で戦いなさいとの意だと思います。しかし、私はあえて言いたい、「所詮一流レベル」であることを。一流は、人並みの結果なら出すことはできますが、他の追随を許さない圧倒的な結果を出したいのであれば、一流を超えた、「超一流」の領域にいかなければなりません。 ある某有名ホテル(超一流)がモットーとしていることは、「お客様を満足させるのは当然であるが、そのためには従業員が満足していなければならない」ということです。仏法は自他共の幸福を説いた教えです。自分が幸福であってこそ、他人を幸福にしていくことができる。御書にも、「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(P1429)とあります。この御文は、自分が満足してこそ、他人を満足させることができると、現代的に展開することもできるでしょう。 私の経験から申し上げますと、自分が心からやりたい、勝ちたいと思えたことで、達成できなかったことはありません。その勝ち方も、他の追随を許さない圧倒的な勝利です。自分の心に迷いがあるうちは、結果を出せてもたいした成果ではありませんし、最悪、「結果は出たけど歓喜はない」という状態になります。これが一流の領域の限界であると思います。 超一流の指導者とは、皆を納得(満足)させ、歓喜させる。そしてそこから大きなうねりを巻き起こす。当然指導者自身も歓喜していなければ、皆を歓喜させることなどできようはずがない。先生もよく、「自分のために戦いなさい」と指導されますが、これを言い換えるならば、「自分の心を満たしなさい」ということではないでしょうか。そうであってこそ、本物の結果を生むことができることを熟知しているのだと思います。一流も素晴らしいですが、どうせならば、超一流を目指していったほうが良いのではないでしょうか。 創価教育とは、超一流の人材を育む教育手法です。そして仏法は一念の世界ですので、自分をごまかすことはできません。一流では、仏道苦行になりがちであり、超一流であってこそ、真の仏道修行となる。私はそのように考えます。 Tweet