稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 9月24日(木)11時02分16秒   通報

悪との闘争は随自意でなければ勝てないというか、戦いにならない。なぜなら、寸善尺魔であり、悪は善の十倍勢力だからである。力関係が下の人間は魔にならず、力関係が上の何かが魔となる。これがわからなければ魔を見破ることすらできない。池田先生が「悪との戦いに遠慮はいらない」と指導されるのも、寸善尺魔だからであり、全身全霊を尽くして、はじめて悪と対峙することができる。

随自意とは空気を読まないということであり、だからこそ迫害されます。空気を読まないといっても、猪突猛進の蛮勇であれということではない。現実の戦いは、あらゆる智慧を振り絞り、不要な難を受けないように注意していくことが大事です。不軽菩薩も逃げて距離を置きながら、礼拝行を実践した。戦うということは、細心の注意と準備をすることであり、蛮勇では敗北を免れることはできない。

空気に左右されない力強さが、生命力であり仏界です。空気を大事にする優しさは、悪との闘争においては仇となり、善人を見殺しにする結果にもなり得る。ここが恐ろしい。54年も多くの幹部が空気を読み、結果的に師を見殺しにしたではないか。辞任は避けられなかったかもしれないが、問題はその根底の一念であることを先生は指摘しているのです。根底の一念という部分がわからなければ、いつまで経っても本門の池田門下にはなり得ない。

現代において、広宣流布を阻む魔が、共産・宗門・反逆者であったのなら、こんな楽なことはない。広宣流布はとてもイージーである。魔を魔と見破ればすでに魔ではなく、皆の周知の事実なので邪魔にならない。事実、これらの三つの勢力は相手にすらしないのが今の学会でしょう。それに、力関係においても、学会のほうが何倍も上であり、「犬がキャンキャン吠えているレベル」でしかない。敵が外部であるのなら、誰も苦労しない。あくまでも敵は内部であり、就中、権力を有している最高幹部であることは言うまでもない。そうでなければ魔にならず、魔が競い起こらなかったら正法ではない。創価学会が正法を行じる団体ならば、必ずや魔が出来する。

外部勢力を悪(本当の)と捉えているレベルでは洞察力に欠ける。本当の悪はそれすらも利用し、さも敵は外部にいるようにみせかけ、カムフラージュする。だから見破れない。誰にも気づかれないように悪事を遂行するからこそ僭聖であり、本当の敵は、皆に尊敬され、「この人が誤るわけがない」と慕われている人間なのである。現代の慈覚・智証は最高幹部の中に現れ、無知な会員を手玉に取る。少しのズレの連続こそが大組織を腐らせ、足元から崩壊させていく。

聡明でなければ魔は見破れない。「池田先生が健在なのだから間違いが起こるわけがない」と思っていたとしたら、悪を甘く見過ぎている。それすらも凌駕し、悪の勢力を増長させていくからこそ悪であり、所謂、「普通の人」の発想では考えられないようなことを思いつく。まさに悪知恵である。善を名乗るのであれば、悪を甘くみない、油断しないことであり、戦いは手を抜いたほうが負けると相場は決まっている。

池田先生がどれだけ内部の悪と戦おうと、弟子が同じ一念に立ち、戦いを起こさない限り、何事も成就しない。悪しき弟子をたくわえてしまったら、師もまた地獄である。悪しき弟子とは、悪を容認する弟子であり、その根底は「保身」である。創価三代の、悪と戦う心を受け継いでこそ会員を守ることができ、それこそが真の「活動家」である。