投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 9月22日(火)16時05分22秒     通報
・永遠の希望様
日蓮大聖人入滅後、多くの日蓮門下、並びに五老僧は、日興上人を離れ、わずか数年の間に分裂していってしまいました。日蓮大聖人の精神を正しく受け継ぐ日興上人よりも、自分自身の価値観を優先し、その根底には、「我こそが日蓮門下の正統なり」とのプライドがあったのかもしれません。孤立した日興上人を外護したのが、南条時光であり、正視眼で物事を見ることができたのでしょう。

日興上人自身、「私が狂ったのなら捨てなさい」と言われているように、人はいつ何時、道を踏み外すかはわかりません。それだけ広宣流布の戦いというのは魔が吹き荒れ、魔とは、何が正しいかわからなくなる現象とも言えましょう。創価学会においては、執行部が決めた方針こそが主流であり、それ以外は支流と位置付けられます。体制側が恐れることは、支流が増えることによる会内の分裂であり、それを阻止することが正義となります。その正義のために、時にパワープレイが行使され、行き過ぎると、「弾圧」となります。

問題は、主流が誤っていたらどうすればいいのか。ここが本質です。体制側の思考は、正しいか正しくないかよりも、秩序維持こそが第一であり、それを正義とします。それに対し民衆側は、秩序維持よりも、正しいか正しくないかを第一とします。考え方のベクトルが違うので、折り合うことは難しい。つまり、チャンネル違いであり、どちらも「正義」を掲げての戦いとなるので、譲れないわけです。

どのような事態になろうとも一番護るべきものは何か。それは、日蓮大聖人に連なる創価三代の精神であり、それが失われた時、創価学会は死滅する。逆に言うと、それさえ失われなければ、火種は消えないので、やがてまた息を吹き返すことができる。54年は、創価三代の精神を、弟子自らが亡きものにしようとした歴史であり、だからこそ断罪されているわけです。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、宿坊の掲示板では、様々な智慧を出し合って、日々、「気づきの提供」がなされていると認識しています。

正しかろうと正しくなかろうと、主流に合わせることを団結というのであれば、もはやそれは死んだ宗教です。神札拒否し、殉教された牧口先生の精神はそこには存在しない。創価学会の組織における「正しい」とは言うまでもなく、創価三代会長の指導を中心とし、羅針盤としていくことであり、就中、池田門下は、「池田先生」の指導こそが根本です。ここをはき違え、「指導と現実は違う」と言い始めるところからズレが生じる。その根底にあるのは師を馬鹿にし、甘く見ている増上慢の命と言えましょう。

もちろんここで言っていることは、現実を見据えず、指導に固執する、所謂「教条主義」に陥れということではない。逆に、「時代や状況が違う」ということで、安易に指導を反故にする姿勢も、また違う。これらはどちらも偏っており不可である。このどちらとも違う第三の道が存在し、それは、師弟不二の弟子でなければわからない。だからこそ、師弟不二が大事なのです。さて、今の創価学会は一体どの道を歩んでいるのか。大事なものを失ってからではすべてが手遅れとなる。

私見を言うのであれば、今の創価学会は随分軽くなったと感じます。時代や状況の名の下に、師を軽んじ、教義を軽んじ、憲法を軽んじ、民衆を軽んじる。それに対する危惧があるからこそ、私は投稿しているのです。第三の道を見据え、新たな価値創造の人材を育んでいかなければ、創価の未来はない。混沌としようと、「大逆転」こそが、池田門下の真骨頂であり、創価三代の火種は絶対に消えないし、消させない。その精神を養うことこそが真の平和のフォートレスであり、創価教育というものであると断言しておきます。