投稿者:まなこ 投稿日:2015年10月11日(日)08時21分0秒   通報
■ 「師弟の勝利!」「信心の勝利!」

遠藤: たしかに題目の功徳を、いつのまにか自分で区切ってしまっていることが、あります。「祈りとして叶わざるなし」の仰せを、文字通り、そのまま「確信」することが大事ですね。

名誉会長: その通りだ。いわんや、広宣流布を目指して戦っている人の祈りが、かなわないわけがない。
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書p1360)と、大聖人は言われている。
「同意」とは「広宣流布」です。広宣流布のため働き、広宣流布のために「信心の勝利」の実証を示そうと立ち上がるとき、言うに言われぬ大功徳が身にあふれてくるのです。
会社だって、会社のために働くから「給料」をくれるのです。御本尊の願いである広宣流布のために働くことによって、その結果、「功徳」がある。これが道理です。
あれがほしい、これがほしい、と、まるで御本尊に功徳を与える「義務」があるみたいにいう信心を、戸田先生はよく「乞食信心」と言われた。勇んで、「広宣流布のために、私は命をかけて戦います!」と立ち上がれ、と。
御本尊を、妙法を、命がけで守ろうとする信心によって、自分が三世十方の仏菩薩から守られるのです。妙法を広宣流布している創価学会を勝利させようという信心の真剣さに応じて、無量の諸天が、仏菩薩が、真剣にその人を守るのです。
戸田先生は、師匠の牧口先生とともに牢獄へ行ったとき、何と祈られたか。
「わたくしは若い、先生はご老体である。先生が一日も早く、出られますように、わたくしは、いつまで長くなってもよい。先生が、早く、早く出られますように」と、朝夕、祈られたのです。何と崇高な祈りか。
仏智の広大無辺でしょう、牧口先生は獄死されたが、不二の弟子は生きて、牧口先生の偉大さを顕彰した。牧口先生の死を賭しての国家主義との闘争が、今、アジアで、世界で、どれほど創価学会の信用になっているか、計り知れない。

斉藤: 全世界が牧口先生を讃えています。ブラジルでは、創価教育学を実践する学校が広がり、また「牧口常三郎公園」(クリチバ市)、「牧口常三郎先生通り」(サンパウロ近郊)、「牧口常三郎通り」(サンジョゼ・ドス・カンボス市)も設置されました。

名誉会長: 牧口先生は勝った。戸田先生の祈りは勝った。生死を超えて、勝ったのです。島国根性で狭い心の日本は、偉人を狭い三畳間の独房に押しこめた。
しかし、牧口先生の偉大さは、そんな黒い鎖を断ち切って、全世界に広がっていったのです。戸田先生の一念によって —- これが本当の師弟の戦いです。
仏法は、どこまでも師弟なのです。神力品においても、「師弟の儀式」になっている。

遠藤: はい。地涌の菩薩は、釈尊が「久遠以来、教化してきた」弟子となっています。この「弟子」に「師匠」が、法華経の末法広宣流布を託すという儀式をとっています。

斉藤: 問題は、ここですね。この文上にとらわれると、日蓮大聖人が、「上行菩薩の再誕」として、釈尊の「法華経二十八品」を弘めた —- という解釈に陥ってしまいます。

須田: ほとんどの解釈が、そうです。

斉藤: しかし、日蓮大聖人はこう仰せです。「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり」(御書p770)
「”釈尊の妙法”を弘めるのではない」と明確に言われています。

遠藤: ただ、これも、“釈尊の妙法”を上行菩薩が譲り受けたのであって、父子の家督相続のように、「もう父の代は終わって、自分の代になったんだから(家督を譲られたんだから)、すべて自分のものであって、父のものではない」と、こういう解釈をする人もいます。

斉藤: どう説明すれば、わかりやすいのか —- 。

名誉会長: 「家督相続」の譬えは、一面の真実を突いている。それは、末法は「上行菩薩の時代」であって、「釈尊の時代」ではないということです。
「後は頼む」と、すべて神力品で譲ったからです。経文を見てみよう。

須田: はい。こうあります。「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(法華経p581)
有名な結要付嘱の文です。

斉藤: 要するに、「如来のすべて」が法華経には説き示されている。それを上行菩薩に付嘱すると。天台は、ここには法華経の全体をまとめる「枢柄」(中心となる肝心要)があるとしています。そして、この経文に則って、法華経の意義を説明しようとしました。いわゆる名・体・宗・用・教の五重玄です。
<「名」は「如釆の一切の所有の法」(如来の所有する一切法の総称であり、妙法蓮華経)、「体」は「如来の一切の秘要の蔵」(如来が証得した法そのもの)、「宗」は「如来の一切の甚深の事」(如来が成仏した因果)、「用」は「如来の一切の自在の神力」(如来が現す衆生救済の力、働き)、「教」は「皆此の経に於いて宣示顕説す」に、それぞれ対応している>
法華経に無限の功徳が備わっている「ゆえん」というか、無限の功徳が発生する「根本」を指し示していると思います。

須田: つまり「如来の生命そのもの」でしょうか。

遠藤: それを上行菩薩に付嘱した、と。