2015年9月21日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 9月21日(月)12時28分26秒 通報 ■ “良医と病気の子どもたち” の譬え 名誉会長: この「方便現涅槃」の意義は、良医病子の譬えを見れば、もっとはっきりするでしょう。 遠藤: はい。譬えのあらましを言いますと、良医が旅に出ている間に、その子どもたちが毒薬を飲んでしまった。苦しんでいるところに、父の名医が帰ってきた。父は「大良薬」をつくって与えました。 須田: この名医は仏、子どもたちは衆生。大良薬は法華経であり、釈尊の師でもある「永遠の妙法」に当たります。末法でいえば御本尊です。 遠藤: そうなります。ところが、せっかく最高の薬が与えられたのに、毒気が深く入りすぎて、薬を飲もうとしない子どもたちがいた。飲んだ子どもは、たちまち元気になりましたが、飲まない子はどうしようもありません。苦しみ、のたうち回っています。 名誉会長: そういう子どもを「顛倒の衆生」という。病んで、治療を願っていながら、薬は飲みたくないというのだから「顛倒」です。道理がわからないくらい「毒気深く入り」になっている。大良薬も「おいしくない」と思って拒否している。 寿量品では「本心を失っている」と言っています。わけがわからなくなっている。「頭破作七分(頭破れて七分に作る)」の姿と言っていいでしょう。 斉藤: 広く言えば、現代人の多くも「顛倒の衆生」だと思います。“社会が病んでいる”とか、“何とかしなければ”とか、議論は盛んですが、いざ根本的な治療である「人間自身の変革」という点になると、本気で取り組もうとしない。抽象論か皮相的な話に終始して、「人間革命の大法」を真剣に学ぼうとはしません。だから何一つ変わりません。 名誉会長: そうも言えるでしょう。牧口先生は、そうした社会の病弊に対して厳しかった。 須田: 「高等精神病」とも言われていました。 遠藤: そういう「顛倒の衆生」をあわれんで、仏である名医が「方便として涅槃を現じた」わけです。 須田: 旅先から使いを出して、「あなた方のお父さんは亡くなりました」と、子どもたちに伝えたのですね。これを聞いて、子どもたちは嘆き悲しみ、「ああ、もう何も頼るものがない」と苦しんで、やっと目覚めるわけです。 「そうだ! お父さんが残してくれていた薬があった。あれを飲もう」と。そして、たちまち病が治ります。父は、子どもたちが皆、健康になったと聞いて、すぐに帰って来て、皆の前に姿を現します。こういう譬えです。 ──────────────────────────────────────── 「御義口伝」から 「妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し給えり(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり無間地獄の苦を救う故なり云云、涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書 p758) 妙楽大師は、寿量品の文を知らない者は、(仏の徳を知らない)恩知らずの畜生であると釈された。(中略)今日において、日蓮こそ一切衆生の父であり、総じて、南無妙法蓮華経と唱える門下も一切衆生の父とあらわれるのである。それは一切衆生を無間地獄の苦しみから救うからである。涅槃経には「一切衆生の種々さまざまな苦悩は、ことごとく仏一人の苦しみである」と。日蓮いわく「一切衆生の種々さまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である」。 ──────────────────────────────────────── 名誉会長: 身近にあると、どんなに偉大なものでも、ありがたみを忘れてしまう。 失ってはじめて、どんなに大切であったか、どんなに自分が救われていたかが、わかるのです。 Tweet