投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月27日(土)08時55分4秒  

では法華経の行者に、これらの障魔が競うのは何が原因かというと、
それは大聖人の仰せ通りに、師匠の指導通りに、組織悪と戦い折伏を行じたからです。
しかもこの第一(俗衆)と第二(道門)の増上慢は、
折伏の度合いによってその現れ方は変わってきます。

友人の間違った思想を正し、会員の我見の信心を諌め、
正しい仏法を説こうとすれば、たちまちこの俗衆増上慢は姿を現し闘争が始まります。
相手の悪思想を責めなければ、俗衆増上慢は現れません。
そしてさらに強く責めれば、仏説のごとく非難や迫害の的となるのです。

しかしこの段階では、まだ第二の道門増上慢は出てきません。
第二の道門増上慢が現れるのは、組織悪との闘争を決意し、
それを強く破折した瞬間から始まります。

もともと道門増上慢は、自分や家族のことしか考えない、保身と心諂曲が特徴です。
自分の陣地が脅かされない限り動きません。
それでも強く責めて、ひとたび自分の陣地に踏み込まれれば、
権威にものを言わせて、恫喝、査問、左遷等と迫害を加えてきます。

所詮、彼等の本質は、次に出てくる第三(僣聖)の奴隷であり、手先なのです。
ここまで俗衆増上慢と道門増上慢を見てきましたが、
この「無智」と「邪智」からくる迫害者は、どちらかというと目に見えてわかりやすいと思います。
無智な人と組織論・信心論の対話をすれば、すぐに無智だと見抜けます。
邪智の人は、露骨に行動に表われますから、これもすぐにわかります。

しかし、第三の僣聖増上慢はわかりにくい。
なぜかといえば、心は「悪心」ゆえに迫害をするのですが、
表面上は聖人君子の様相を呈しているからです。

だから「僣聖」の正体を民衆や会員に暴くことが大事なのです。
一部の人が目覚めただけでは社会は変わりません。
行動を起こして僣聖増上慢をあぶり出すしかないのです。

妙楽大師も
「第三の者(僣聖増上慢)が一番悪質である。
より一層、正体を見抜きにくいからである」(二二九頁)と述べています。

「僣聖」とは、《聖者を装う》という意味です。

では、第三の僣聖増上慢を見ていきましょう。