投稿者:セブンスター   投稿日:2015年 6月30日(火)10時39分36秒     通報
本書にはあらゆる箇所で「法」の重要性が書かれています。
羅列しますと、

「万人成仏の根本法」          7ヵ所
「万人の苦悩を根本から解決する法」   1ヵ所
「末法の人々を救う法」         1ヵ所
「宇宙と生命に内在する根本の法」    7ヵ所
「根源の法」             15ヵ所
「普遍の法」              1ヵ所
「最高の法」              1ヵ所
「自身の生命に覚知された法」      1ヵ所

合計34か所にわたり「法」が強調されています。
これが多いか少ないかは皆様の判断にお任せする事になりますが、私は強調し過ぎではと思うのです。

もちろん本書には、「大聖人の生命に覚知された御本尊」と言った様によく読めば「人法一箇」
かな?と思わせる様な記述もありますが、それにしては「人法一箇」という表現は無く、一体
何が言いたいのかよく解りません。

それにしても、考えなくてはならないのは、教学を解っている人はまだいいにしても、これから
教学を学ぶ人が、「法」を必要以上に強調した本書を読んでどの様に考えるかが問題だと思うのです。

日寛上人を否定しながら日寛上人の言葉を勝手に引用する。
54年問題をさらっと流し、弟子の罪を明確にしない。
一大秘法・六大秘法は使わないのに、一大秘法・六大秘法的な表現は使用する。
「人法一個」の記述はないが、人法一箇的な表現はある。
学会は本尊を認定するとしながら、何を認定するか明確にしていない。

大聖人の仏法に「差別」を設けて一体何を目指すのでしょうか?
差別は官僚主義を生み、官僚主義は衰退を生みます。

今の世はまだ先生の在世であり、学会員の殆どが大聖人の仏法の平等性を理解していると思います。
しかし30年後、50年後はどうか?掲示板に投稿されている論客の方も今の執行部も居ないでしょう。
その時「法」があまりに強調された本書を学んだ人が一体どんなことを考えるか?
非常に不安です。
「教学レポート」にも、本部の姿勢が1ミリでも狂えば現場は10メートル、100メートル狂うと書かれています。
同じ様に教学自体も考え方が1ミリでも狂えは50年後100年後には10メートル100メートル狂うのです。
もしかしたらとんでもない解釈になっているかも・・・・

だからこそ大聖人の仏法を正しく伝えるのは今を生きる我々の責任でもあり義務でもあると思います。
本書は大聖人の仏法を正しく伝えているとは思えませんし、こんな本を出版した学会教学部並びに
執行部はその責任を深く思うべきです。