投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月21日(日)13時11分0秒     通報
・虹と創価家族様

同志とは善知識です。章安大師が「彼のために悪を除けば、即ち是は彼のための親である」との言葉を残しているように、善知識とは、自身の悪を除いてくれる存在です。それでは具体的に同志の悪(謗法)をどのように除いていくべきかを、御書を通して明らかにしていきたいと思います。

御書(P1308)通解
「浅い罪であるならば、こちらから許して功徳を得させるべきである。重い過失であるならば、信心を励まして、その重罪を消滅させるべきである。」

浅い罪とは、愚痴や文句レベルと考えて良いと思います。これも謗法というカテゴリーに入りますが、だからといって一々、「それは謗法だ!」と戒めていたら息苦しい世界となります。この場合は、「こちらから許して」とあるように、包容していくことが大前提となります。包容とは、気持ちに寄り添い、わかってあげること。人というのは「自分のことをわかってくれた、受け入れてくれた」という安心感があってこそ、力を発揮します。包容力というやさしさこそが、相手の信心を触発し、功徳を得させる源泉となります。浅い罪の場合は、慈母の振る舞いが大事になります。

一方、重い過失というのは、嫉妬や恨み等を根底とした増上慢の振る舞いをいいます。また、己義を構えたり、人の言に耳を傾けない慢心です。重い過失とあるように、このような状態になると、本人には自分の狂いに気がつきません。この場合は、やさしさで包容してもダメであるどころか、むしろ逆効果となります。「信心を励まして」とあるように、具体的に過ちを指摘し、呵責していくこと。「謗法ではないか!」「増上慢である!」と、厳しい叱責をすることが、信心を励ますことになります。これは厳父の振る舞いであり、本人の過失に気づかせるためにも、やさしさは不要なわけです。いずれにしても根底には、「慈悲」がなければならないのは言うまでもないでしょう。

指導する側である最高幹部や職員等に対しては、その影響力や立場等を考えてもわかるように、厳父の振る舞いで対応していくのが定石というものです。慈母の振る舞いで、「同じ人間なのだから」では、かえって増長する危険性があります。会員に対しては、厳父ではなく慈母のやさしい包容が表となります。これが人間学であり、仏法とは、融通無碍の臨機応変の振る舞いなのです。決して「こうあらねばならない」という世界観ではありません。重い過失の幹部に対し、やさしさで対応したら、それは慈悲魔となります。

魔というのは、この慈母と慈父の使い分けをごっちゃにさせ、あたかも内部なのだから「慈父はダメである」というように、悪を責める側を「団結を乱す」「他の会員が動揺する」等、戦わせなくします。親の思いをなしているのが魔ですので、戦わせないようにするため「人情」に訴えてきます。本人がよからんと思って忠告していても、結果的に魔の振る舞いとなっていることがあります。これもまた過失なのです。

慈母と慈父を上手に使い分け、内部の悪と戦っていくことです。深い祈りと信心で見極め、智慧を発揮させた振る舞いをしていくことです。愚かであっては魔王に太刀打ちできず、むしろ魔王の眷属となっていくわけです。これは実に恐ろしいことなのです。