投稿者:正義の走者   投稿日:2015年 6月 4日(木)23時40分45秒     通報
信濃町さんに賛成です。

ある種の学問や、個人的解釈に文句を言うつもりは有りませんが、大聖人の仏法は、名字即であり、以信代慧です。
どなたかのお話は、良く言えば観行即や相似即を目指している様でもあり、悪く言えば、別教の即身成仏の様でもあり、言語道断(名字以前の世界)を思考しているところは教外別伝の匂いもするし、正直よくわかりませんが、何れにせよ、仏道修行としては御本尊への信と唱題に尽きるのであって、特別な行法を条件づけるべきではないと思いますよ。
「入其身」にしても、結句は、
「法華経(御本尊)を持ちて南無◯経と唱うる」をもって「胸中の肉団におわす」ということに尽きるはずです。

「体験」についても、それこそ先の宮田教授が、先生との思い出を語っている中で、「戸田先生の獄中の悟脱の様な霊的経験が池田先生にもあったのか」との質問に対して、「私にはその様な経験はない」と、率直に答えられたことに感動を覚えたとの経験を語っています。