投稿者:正義の走者   投稿日:2015年 6月 4日(木)22時34分17秒     通報
宮田教授をかついでの学会新教学が、顕正会の浅井にまで馬鹿にされていることは先日お伝えしたが、

この体制で「新経本」制作へ向けて、準備が進んでいるらしい。

「一大秘法は御本尊ではない」といい、日寛文段も読んでいない人たちが、

いったいどんな観念文をつくるのだろうか。

のんきに御用学者を自認する宮田教授だが、

今や全学会員の成仏の責任を負わされている御自覚はあるのだろうか。

さて、先日どなたかが、氏の論文の「池田」との呼び捨てに対し苦情を呈していたが、その学問上の是非はともかくとして、信濃町のご都合主義の不公平な対応には文句を言うべきだろう。

2009年のことだったと記憶するが、創価教育研究所の神立教授等が「池田思想研究への道」と題する書を上梓した。ところが、先生の呼称を「池田」と呼び捨てにした表現形式だったことが問題とされて、発行間も無く焚書坑儒にされた。そして、同名で再刊された「改定版」では、しっかりと尊称がつけられている。

なのに、今回の宮田論文にはクレームが付いていない。理由は推して知るべしである。

同じ様に、「天鼓」は問題視も責任追及もされず、「教学部レポート」や「遠藤文書」は怪文書扱いの上、処分まで受ける。

こうした不公平な対応だけ見ても、透けて見えるものがあるではないか。

今回の「新教義解説」こそ、焚書坑四にすべきである。(四は勿論四人組の意)