池田先生の指導②1-1
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 8日(月)12時56分56秒 返信・引用

話は、変わる。
いうまでもなく、仏法の本意は、すべての人を成仏させることにある。経文には「一切衆生皆成仏道」と説かれる。
しかし、その成仏の道を、みずから閉ざす人々がいる。それが「一闡提」である。

一闡提については、古来、さまざまな見方や議論があるが、基本的には、正法を信ぜず、誹謗し、しかもその重罪を懺悔もしない、「不信」「謗法」の者のことである。さて、釈尊在世の一闡提の代表といえば、提婆達多であろう。彼は釈尊のいとこで、最初は仏弟子となりながら、後に師敵対してかずかずの悪逆を行った大悪人であった。

御書には「提婆達多は閻浮第一の一闡提の人」(御書一三七三頁)――提婆達多は全世界第一の一闡提の人である――と仰せである。

また、「たとひさとりあるとも信心なき者は誹謗闡提の者なり(中略)提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼへ十八変を現ぜしかども此等は有解無信の者今に阿鼻大城にありと聞く」(御書九四〇頁)と。

――たとえ悟りがあっても、信心のない者は誹謗闡提の者である(中略)提婆達多は外道の六万蔵、仏教の八万法蔵の経典を理解し、身に十八神通(十八種の神通変化のこと。右腕から水、左腕から火を出す等である)を現じたけれども、これらは有解無信の者であるために、今なお阿鼻大城(無間地獄にあると聞いている――。

提婆は、当時のいわば最高峰のインテリであった。知的能力の面では、仏法はもちろん、あらゆる知識に通じていた。しかし、超エリートの仮面の下には、どす黒い心が渦巻いていた。

彼は、名聞名利の心猛き野心の人であった。最初こそ釈尊に随順していたが、民衆の厚い尊敬を受ける釈尊をしだいに嫉妬し、その立場にとって代わろうとした。自分が「仏」として尊敬を受けようとしたのである。こうした自身の野望のため、釈尊の殺害を謀るなどの大罪を繰り返した。

それらの罪の中でも最大のものは、五逆罪の一つ、「破和合僧」の罪であろう。
釈尊を中心とした、尊い清らかな教団を切り崩そうとし、多くの人を悪への道連れにした罪はまことに大きい。

涅槃経には、五逆罪を犯して、なお、おそれ恥ずるところなく、仏法を破壊し、軽んずる人は「一闡提の道」へ向かうと説かれる。
いわく――「若し四重(殺生・偸盗・邪婬・妄語の四つ)を犯し、五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すを知り、而も心に初より怖畏、慚愧無くして肯て発露せず、仏の正法に於いて、永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して、言に過咎多き、是の如き等の人も亦一闡提の道に趣向すと名づく」と。

釈尊以上の名声を願っていた提婆達多は、釈尊をおとしめ、教団の統率者の地位を奪うために、うまい方法を考えだした。
それが、いわゆる《五法の行》とか、《五事》といわれるものである。いくつかの説があるが、一資料によって列挙すれば――。

①糞掃衣(汚い布で作った衣)のみを着て、人の施す衣を受けないこと。
②托鉢のみで生活し、供養招待を受けないこと。
③一日に一度、午前中に食事をとるほかは食事をしないこと。
④つねに屋外の露天に座って、家の中や樹の下に座らないこと。
⑤塩や五味(牛乳・乳製品の五種の味)を服しないこと。
この五点である。
こうした厳しい生活規定の厳格な順守を、提婆は教団に要求したのである。
彼の主張は、極端な戒律主義、禁欲主義の要求である。一方、仏法は中道である。
大事なのは「悟り」であり「精神」である。仏の智慧と慈悲を得るのが目的であり、当時の戒律もその手段にすぎない。

結局、提婆の心中にあったのは、釈尊が「竹林精舎」(迦蘭陀長者が釈尊に寄進したとされる寺院)や、「祇園精舎」(須達長者が寺院を、祇陀太子が土地と森林を寄進した)などを法城として弟子を訓育していたこと、清らかな信心の発露として教団に多くの供養が寄せられていたこと等へのやっかみであった。
しかし、五カ条の要求は、提婆がいかにも純粋な修行者、厳格な仏道修行者であるという印象を与えた。
もちろん、釈尊は提婆の心底のねらいを見抜き、彼の主張を退けたのであるが、提婆は釈尊の精神のわからない新しい弟子を巧妙に手なずけた。

そして五百人の弟子が、正義はわれにありといわんばかりの、提婆のもっともらしい主張、まじめで純粋そうな姿にひかれて、釈尊のもとを離れてしまったのである。