投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 5日(金)16時20分34秒 返信・引用

勧持品では、彼らの実態を、さらに、こう描写し、予言している。
「利養に貪著するが故に 白衣の与に法を説いて 世に恭敬せらることを為ること 六通の羅漢の如くならん 是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い 名を阿練若に仮って 好んで我等が過を出さん 而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は 利養を貪るを為っての故に 外道の論議を説く 自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す 名聞を求むるを為っての故に 分別して是の経を説くと 常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん 我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん」(開結四四一頁)

――この悪僧らは自己の利益を貪り、執着し、そのために在家に法を説いて、世間から尊敬されることは、六種の神通力を備えた聖者のようであろう。この人は悪心を胸にいだき、つねに世俗のことを思いめぐらし、静かなところにいる外見を示しながら、好んでわれら法華経の行者の悪口を言うのであろう。
しかも次のように言うであろう。「このもろもろの僧など(法華経の行者)は、わが身の利益を貪るゆえに、仏教ではない外道の教えを説く。勝手に、この経典(法華経)をでっち上げて世間の人々をだまし、惑わす。法華経の行者たちは名聞(名声)が欲しいために、さがしらな知恵を出して、この経(法華経)を説くのだ」と。

僭聖増上慢はつねに大勢の人々の中で、われら法華経の行者を中傷しようと願っている。
そこで、権力者の国王・大臣、権威をもつバラモンや社会的有力者、および他の仏教者に向かって誹謗して、「これは邪見の人である。外道の論を説く」と、われらの悪口を言う。われらは仏を敬うがゆえに、こうした三類の強敵のもろもろの悪をすべて忍耐しよう――。

貴き聖職者の外見で人々の尊敬を受けながら、そのじつ、「利養」すなわち金銭等と「世俗」の名聞や享楽に執着し、正しき法華経の実践者を追い落とそうとする。
その手段として「権力」と「権威」にすり寄り、利用する。
また自分たちこそ「真の仏道」を行じているのであり、法華経の行者などは「外道」にすぎないと、自分の権威を使って内外に言いふらす。

これが法華経に予言された《末法広宣流布の敵》の姿である。
この《鏡》に照らして見れば、何が起ころうと、真実は明白であろう。

「人間を軽賤する者」――その肥大した病的な特権意識。
人を人とも思わぬロボット(機械)的冷血。
邪智にたけた策謀好きの性格。
好んで悪口ばかり言う嫉妬深さ。
権威・権力に寄りかかる臆病さ。
そうした本質を、私どもは鋭く見破らねばならない。

モンテーニュいわく「臆病は残酷の母」と。
残酷で 手かげんしない人間というのは、じつは、臆病なあまり、感情的に相手をやっつけてしまう――というのである。
非人間的な残忍さは、自分の「おびえ」をごまかすためである。
残酷な独裁者として歴史に名を残すスターリンもヒトラーも、小心者であった。
ヒトラーと戦ったチャップリンの裸の人間性こそ「勇気」の表れであった。
私どもが世界に展開している人間的な「対話」「友情」こそ、本当の「勇気」の証明なのである。

【第一回SGI世界青年部幹部会 平成三年七月十日(全集七十七巻)】