投稿者:アルベアメール   投稿日:2015年 5月 6日(水)11時42分25秒     通報
信濃町の人びと様
★明確な目標を持ち、真剣に、ある意味命懸けで、御本尊に題目を唱える中で、御本尊と一体になる感覚になることがよくあるのではないでしょうか。
おそらく、多くの学会員はそのようなトランス状態とでも言うのか、不思議な体験をしていると思います。
これはアルベア様の言われている認知運動療法と関係があるのでしょうか?
答え 関係がおおいにあります。

★質問です。認知運動療法は
認知行動療法と同じものでしょうか?あるいは同じ原理を用いているものでしょうか?
答え 同じような原理を用いていますが、認知プロセスのシフトについては
認知行動療法・認知運動療法では展開されていません。なぜならば認知パターンの変更に意味があるとみなしているからです。私の言う認知プロセスそのもののシフトは患者の自然治癒力を活性化するところからアプローチするものです。

認知運動療法を少し調べてみました。正確に理解するために、
おすすめのサイトがありましたら教えてください。
答え

認知神経リハビリテーション学会
http://www.ctejapan.com/ncr/ncr.html

認知行動療法センター
http://www.ncnp.go.jp/cbt/about.html
また、眼差しのアプローチについて、もう少し詳しく教えていただけると助かります。
答え 「眼差し」という事に関して、生理学的に展開されてきていますが、「眼差し」そのものは「意識する世界」に関与していることはあまり語られていないのが実情です。
「見る」「眺める」等は、意識を焦点づけることにより起こる現象です。そしてその「眼差し」が記憶され「思い出」睡眠中の「夢」祈っている時の「思い」等すべて映像化されて私たちは体感・体験しています。
「眼差し」を変える、見方を変える、とは、意識の使い方、注意の仕方を変えることを意味します。(日常的に自動的に行われている現象ですが)「眼差しのアプローチ」は意図的に方向づける、促すことを言います。
例・同じような病気を持った人たちが連携し合い、患者会・家族会などを立ち上げるのは、そうした「眼差し」のシフトをもたらせ前向きになるからです。
同じような境遇を共有し合うことにより意識が変化すること等です。
しかしこの認知運動療法と類似の技法が古今東西の宗教形態に含まれています。いわゆる中心礼拝・音読・書写等の修行方法です。
★これは信心や学会活動などの信仰の領域とクロスする箇所ですね。なかなか興味深いです。
答え 私が言いたいのは信心や学会活動を内輪的な見方ではなく、もっと広く
普遍的に見ていくと宗教的な枠組みから離れた視点からアプローチが可能となるということです。(思考が硬直化した人にはなかなかこうした見方はわからないようでしたが)

★認知行動療法のように、意識の世界で過去の意味付けを変えていくことに似ていますか?
答え そうですね。過去も現在も未来も変えていくことができます。

★生命の働き、つまりは、自分の中で、ある対象と一体化していくこと。という意味でしょうか?
信仰の世界とは、常に内観的に自分の命の中で、教えを体得する意識の世界と不可分であることは理解できますし、実感としてあります。

答え そのような体感・体験は、信仰の世界に限定された現象ではないという事です。物まねに見られる「模倣学習」なんか同様な事が言えます。

★善悪を超えた現象、難しいですね。
悪を悪として責めながらも救済をもたらすという意味でしょうか?仏や不軽菩薩のような境涯ですね。

答え 「悪を攻めるのが悪の救済をもたらす」対象化する現象の世界では表面的にはその通りですが、今、一重深くみると、そこには攻める側の「慈悲」が常にあるという事です。その「慈悲」が善悪を超える仏の意識の現れなのです。「平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)こそ善智識なり」とおおせのこととどうようなことです。
認知運動療法ではなく認知運動技法によるアプローチは「迷うを凡夫、悟るを仏という」ごとく「悟る」ためのアプローチとして位置づけることができます。

関心を持っていただき、ありがとうございました。感謝いたします。