2015年4月21日 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 4月21日(火)12時55分20秒 通報 編集済 上部にあるテーマですが、先生のご指導であることはご存知かと思います。 随筆 新・人間革命 「信心の巌窟王」です。 牧口先生と戸田先生、戸田先生と池田先生の師弟不二の戦は、悪との間断なき闘争です。 悪は様々な形で存在します。 悪と闘争しない人は小善です。 また、悪を放置する人は自分が悪と同じ。 これは、牧口先生が指導されています。 小我の命を打ち破り、大我に変革するには、広布の為の信心しかない。 では、広布とは何か、仏とは何か。 先生の指導は明確です。 広布とは流れそのもの。 戦い続ける人が仏。 大聖人の教えは仏と魔との闘争。 ならば、魔を増長させる悪を放置してはならない。 悪との闘争とは、信心の永遠のテーマではないでしょうか。 もうこれくらいでよい。それでは悪を許してしまいます。 眼の前に悪がはびこれば、それを退治する。 それが創価三代の指導ではないでしょうか。 今はどんな時か。三代会長の功績を否定し、 池田先生に批難が向かうよう仕向けている悪しき4人組み が暗躍している。 それと戦うのが、池田門下だと思います。 以下、随筆を一部抜粋します。 戸田先生もまた、一瞬たりとも、師を獄死に至らしめた敵を忘れられなかった。 「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」(御書九三一㌻)と、蓮祖大聖人は厳しく試められている。 本来、仏法には、血塗られた復讐はない。生命は尊極であり、たとえ悪人たりとも、命を奪うことは許されない。 また悪業の法罰は、必ず悪人自身が受けるからだ。 だが、悪は暴かねばならない。断固たる怒りをもって、徹底して追い詰め、打ち砕かねばならない。 悪を蓉認すれば、さらに多くの人びとが苦悩の辛酸をなめなければならないからだ。 中途半端な戦いでは、邪悪をますます増長させていくだけである。 「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(同五八四㌻)とは御聖訓の一節だ。 大悪と戦う正義の怒りは、大善を生むことになる。極悪と戦えば、極善になるのだ。 そして、善人の勝利、善の繁栄こそが、邪悪への最大の復讐となるのである Tweet