投稿者:ヨッシー   投稿日:2015年 4月 8日(水)11時08分13秒     通報 編集済
正義の走者さんへのレスの続きです。

> この日寛上人の「人間主義仏法」を捨てて、四人組ら学会の執行部は会員をどこへ連れて
> 行こうとしているのか? 行き着く先は身延離山の逆コース、身延帰山ではないのか!?

今回の会則改変で、学会が身延帰山しつつあるのではないかと思わせる点は、
他にもいろいろあります。

まず、そっくりなのが、戒壇論です。

11・7原田会長発表と1・29の教学部解説によると、学会は「日寛教学の一大秘法、六大秘法
という用語は、今後用いない」と宣言し、戒壇には「事」も「義(理)」も立てないと表明し、
「『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目』であり、その唱える場がそのまま
『本門の戒壇』となる」との新たな戒壇論を打ち出しました。

日寛教学で言えば、三大秘法抄に明かされる王仏冥合の暁の事の戒壇を放棄し、義(理)の戒壇のみ
になってしまったということです。

しかし、こうした事の戒壇思想を否定し、
本門の本尊に対し本門の題目を受持する当処を本門の戒壇とする思想は何も新しいものではなく、
身延山11世で中興の祖と言われる室町時代の代表的な教学者・行学院日朝をはじめ、
さまざまな門流で唱導されたものと全く同一です。

「御書根本」を旨とするはずの創価学会が、自前の御書に収録されている三大秘法抄の事戒壇建立
を放棄してしまったのだから、「御書根本」の看板は、すぐさま降ろすべきですね!!
一方、いまの日蓮宗は、戦時中の本門宗(北山本門寺)、顕本法華宗との三派合同以来、
富士門流や勝劣派の教学も包摂していて、宗門として広布の暁の事戒壇建立を目指すと
しているから、学会はもはや身延以下に堕してしまったといえるでしょう。

ネットで拾ったものですが、日蓮宗の学者でも、大聖人の思想は「理戒壇」ではなく、
具体的な建造物の形をとる「事戒壇」であると主張しています。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm
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日蓮聖人の思想は「事」の立場を究極としそれに徹底することをめざされたものである。
「事」とは正しい理念は具体的な事物・事象として結晶し、事物・事象においてこそそれ
が顕現されると説く思想であると解される。三秘のうち本門の本尊と本門の題目について
いえば、本門の本尊は大曼荼羅本尊として具象化され、本門の題目は、事行の題目・唱題
として具体化・実践化される。ゆえに戒壇にかぎって事でなくて理の立場であるというの
は日蓮聖人の思想として整合しない。聖人は本御書を除き、一般に三秘を列挙される場合、
本門の戒壇について何の説明もされていない。それはおそらく聖人が意図される戒壇は、
理的・観念的なものではなく、具体的な場所・建造物・事物としての戒壇であったから、
それを建設するのに必要な諸條件が具備されていなかったためであろうと考えられるので
ある。理的観念的な戒壇であれば、教義としてそれを説明することはいくらでも可能のは
ずであるから、御説明がないのはそれが事物としての戒壇(事壇)であることを証明する
ものであろう。聖人は伝教大師の比叡山戒壇を高く評価し大いに賛美されているから、御
自身が意図された戒壇も比叡山のそれと同じく具体的な建造物の形を取るものであったこ
とは疑ないと思う。
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「日蓮聖人の思想は『事』の立場を究極としそれに徹底することをめざされたものである」
との指摘は鋭いですね。日蓮宗ですら、「理」の立場から「事」の立場へとシフトしている今、
創価学会が逆に、「事」から「理」へと堕ちて行ってるのだから、お話になりません(笑)

本当に、身延以下のお粗末な教学になってしまいました(T.T)