投稿者:ヨッシー   投稿日:2015年 4月 3日(金)23時00分16秒     通報 編集済
11・8原田会長発言(「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」
=趣旨説明①)が内包する問題点を明快に解説してくださり、ありがとうございます。エッセンスを抜き書きすれば、

一、学会員は、1991年の「魂の独立」以前も以後も、2002年の会則改定以前も以後も、一貫して「弘安2年の御本尊」を信受(=受持の対象と)してきた。

 

一、宗門が1990年頃から“謗法まみれ”になり「弘安2年の御本尊」が大謗法の地にあることになった後も、「弘安2年の御本尊」を信受(=受持の対象と)してきた結果、功徳がなくなるどころか、「絶大な功徳を受け」てきたことを、趣旨説明③と④は認めている。

 

一、ゆえに「大謗法の地にある」ことは「弘安2年の御本尊」を「受持しない」ことの理由にはならない。

 

一、趣旨説明①が趣旨説明自体の中で齟齬をきたす決定であることは明らかである。

 

一、趣旨説明①の決定を提唱・容認した原田会長、秋谷最高会議議長をはじめとする執行部は全員、速に趣旨説明①を公式に撤回し、創価学会内外に謝罪するべきである。11・8原田会長発言は、外部からの批判以前に、その説明自体の中で自己撞着に陥っているのだから、お話になりませんね(笑)

源蔵さんが引用している「ある人の私信」とやらも、
「学会は弘安二年の本尊が後世の作であるなどとは一切言っておりません」
と言いながら、「根拠に乏しい従来の伝承を無批判に持続していくことは時代状況に適応せず、むしろ適切ではないでしょう」などと言ってますね。
弘安二年の本尊について「従来の伝承」といえば、“戒壇本尊は身延で大聖人が直造”等ですが、それが、「根拠に乏しい」と言うのですから、後世の作であると言っているのも同然ですよね。

どうも、今回の会則改変を推進もしくは擁護している人たちは、自分の言っていることの自己矛盾にすら気づかないほど、悩乱しているようです。

それはさておき、執行部はどうしてこんな自己撞着の会則改定を発表してしまったのか?

会長発言の文面から考えるならば、「魂の独立」以降、四半世紀もの間、
大石寺が謗法の地と化したため「登山することもなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかった」という事実と、その間も「絶大な功徳を受け」てきたという事実の二つから、弘安2年の御本尊を“受持”しなくても功徳があり、“受持”の対象とする必要がないと即断したためではないかと思われます。

ところが、これがとんでもない大間違いw

執行部は、学会員がずっとこの間「一閻浮提総与の大御本尊」である弘安2年の本尊を「信受」してきたという事実を見落としていました。更に、大御本尊がこの間ずっと大謗法の地にあったという事実も。

 

池田先生は魂の独立後に、このように指導されています。
「 『一閻浮提広宣流布』に進んでいるのは学会である。ゆえに、学会の『信心』こそが『一閻浮提総与の大御本尊』に深く通じ、大功徳を頂戴してきた。その『信心』ある限り、だれびとも大御本尊と私どもの間を『切る』ことなど、できるはずがない。電波は宇宙を駆ける。月とも交信できる現代である。

いわんや信心の『一念』は『法界に遍(あまね)し』で全宇宙に通じていく。正本堂は、すぐそこである。」
(本部幹部会・埼玉総会 <1991年12月8日>)

「絶大な功徳を受け」てきたのは、学会の信心が大御本尊に深く通じてきたからだったのです。

更に、こうも指導されています。

「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない。日達上人は述べられている。
『大聖人様はもう亡くなられております。その魂、その大聖人様の御魂が、この戒壇の大御本尊様である。(中略)あなた方の各仏壇に安置するところの御本尊様が、大聖人様の御精魂である。大聖人様即、 法身報身応身の三身相即したところの御本尊様でございます』と。(一九六二年九月七日、小田原教会での説法)各家庭の仏壇に御安置した御本尊は、『大聖人の御魂であり、御本仏の当体である』と拝すべきなのである。そう信じて唱題するとき、そのまま、その場所で、大御本尊を拝していることになる。
日達上人は、『御本尊安置の場所がどこであれ、いちおう義の戒壇と申しても、その御本尊に向かって一心に余念無く唱うるところのお題目は即座に本門戒壇の大御本尊に納まり、南無妙法蓮華経と唱えるその場所即霊山浄土であり、即身成仏のところであります』と述べられている。
世界のいずこの場所であれ、御本尊を信じて、純真な『信心』の一念で唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく。『登山しなければ功徳がない』などというのは、先師の指南に背いた大邪義である」
(第一回アメリカSGI最高会議<1993年9月16日>)

「世界のいずこの場所であれ、御本尊を信じて、純真な『信心』の一念で唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく」から、大謗法の地・大石寺に登山し、大御本尊を拝することがなくても、絶大な功徳があったのです。

この池田先生の指導からすれば、学会員が絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのは、「弘安2年の御本尊」を信受(=受持の対象と)し、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えてきたからであることは、明らかです。

ところが、池田先生の指導やご意向なんかどこ吹く風の一部最高幹部は、
“ひょっとしたら、大御本尊を信受(=受持の対象と)しなくても、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えれば、功徳があるのではないか”と考えたようです。

創価学会が誕生して以来、85年の間、ただの一度も大御本尊を信受しない、受持しない時はなかった。今回、初めて、その“実験”をやってみようというのです。一閻浮提総与の大御本尊も大聖人直筆のどの御本尊も、受持の対象としないとぶち上げ、「大聖人直結」の旗を降ろした状況の中で、各家庭や会館、各人の御本尊を拝むだけで絶大な功徳があるかどうか――この前代未聞の“実験証明”に挑もうというのが、今回の会則改定の学会史における意味です。

いままでの会則に則った信仰で、絶大な功徳があったのだから、わざわざこんな危ない掛けに、一般会員を巻き込む意味がどこにあるのでしょうか?
やりたければ、会則改定推進者たちだけでやってみればいいのでは?
もっとも、執行部が、御祈念文の「一閻浮提総与の大御本尊に南無し奉り・・・」の文言をいつまで経っても変えようとしないのは、どこか、この賭けに不安を感じているからかも・・・w

いずれにしても、田舎丼さんの「執行部は全員、速に趣旨説明①を公式に撤回し、創価学会内外に謝罪するべきである」との糾弾は、至極当然のことです。
即刻、総退陣すべきですね!!

この厳しい追及をかわす方法があるとしたら、趣旨説明②を公式に謝罪訂正し、「弘安2年の御本尊を受持の対象にしない」という時の「受持」の意味は、
大石寺に登山し、大御本尊を拝することはしないという意味だったと、苦しいけれども言い訳するしかないでしょうね。これなら、いちおうこれまでの「大石寺に登山し、大御本尊を拝すると謗法に供養することになるから、登山しない」というのと同じことになるから。

実際、男子部中央が全国に配布した広宣資料では、
「弘安2年の御本尊を『受持の対象としない』からと言って、弘安2年の御本尊を信ずる対象にしないと言うことではない」「『受持』の意味は『実際に目の前で拝む対象』にするという意味を持つ」と述べています。

男子部中央は、原田会長の趣旨説明①は“一閻浮提総与の大御本尊は信受するが、大謗法の地・大石寺に登山して目の前で拝むことはない”という意味であると述べているのですが、大人の執行部もこのレベルにまで後退しないかぎりは、いまの大混乱を収拾する道はないのでは?