2015年5月17日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 5月17日(日)19時18分53秒 通報 編集済 御書P917 趣意「人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いを起こして人間にとりついてその人を優遇し、供養をする。それは、世間の人に真実の僧であると思わせるためである」 魔王が喜び、優遇するのは、法華経を行じないことであり、言うならば、悪(魔王)と戦わない人間です。悪に対して寛容であればあるほど、魔王は喜び優遇します。そして魔王は、内部の悪と戦う人間に対して、様々な人間の中に入り、このように言っていきます。「団結を乱してはいけない」、「同志を誹謗してはいけない」「動揺する会員が出ますよ」と。人のやさしさ(人情)に付け込み、戦うことを阻止してくる。悪と戦う人間をいかに骨抜きにし、無力化するかが魔王の戦いであり、手口である。魔王に従っていれば、魔王にかわいがられ、大事にされます。逆に、魔王の正体を暴こうとすればするほど、迫害されます。魔王にかわいがられて偉くなった最高幹部が創価学会の中にいるかもしれません。それを暴こうとしているのが宿坊の掲示板です。 「あなたのためである」と親のような想いで悪と戦うことを止めさせようとするのは、魔王の眷属です。もっとも人間の弱い部分である「やさしさ」に付け込んできますので、慈母の信心では魔王には勝てません。厳父の信心でなければ魔王と対峙することはできず、それは鬼を意味します。鬼でなければ魔王に勝つどころか、見破ることすらできないのです。日蓮大聖人が慈母の信心であったでしょうか。厳父の鬼のような信心であったことは、御書を拝せば明確でしょう。 師匠が第一線で指揮を執り、厳父の信心で弟子たちを指導しているときは、魔王も容易に動くことはできず、会員も安心していられましたが、これからはそのような時代ではありません。魔王との対峙は厳父の如く厳しく対処していかなければならないのです。まだまだその意識が薄いというか、悠長なのが今の創価学会でしょう。即ち、まだまだ慈母の信心ということです。平時においてはそれでも構わないのでしょうが、悪(魔王)と戦うとなると別です。この違いがわかっているかどうかです。 魔王と戦うのに遠慮はいらない。というか、遠慮している余裕などなく、鬼でなければならないのです。そうでなければ到底守れない。第六天の魔王の正体は、親(味方)のふりをしているニコニコしたおじさん(おばさん)であり、人情に訴え、戦うことを阻止してくるのです。愚人にほめられたるは第一の恥であり、魔王や魔王の眷属に優遇されるようなことがあってはならない。 仏法は勝負であり、魔王と戦う側なのか、それとも魔王の眷属になるのか、二つに一つであり、中間はありません。そして、魔王の眷属というのは、自分では気づきません。魔王は、正体が暴かれることを最も恐れ、民衆が賢くなることが大嫌いです。賢くなると、見破られてしまうからです。それを阻止するために、一人ひとりが考えることなく、無条件に信じてくれさえすればいいのです。そして、魔王や魔王の眷属は自分たちが真実であると思わせるために、立派な姿をしているので、考えない人はだまされてしまいます。人々に敬われ、まともな姿をしているので、見破るのは困難なのです。 広宣流布を推進するにあたり、魔王と魔王の眷属との衝突は避けられないのです。それでこそ正法の証明であり、何もなく平穏というわけにはいかない。そのことを意識し、今後の信仰生活を送っていただければと思います。 Tweet