投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月17日(日)11時13分12秒     通報

師弟不二の覚醒について三つの観点からの考察

1、 一念
祈りとは一念を定めることであります。南無妙法蓮華経(仏界)を根本として生きるか、それとも自分(九界)を根本として生きるか。信心とは仏界を根本として生きていくということである。南無妙法蓮華経と唱えることは一体何を意味するか。それは、「私はすべての功徳を兼ね備えた完全無欠の仏である」と言っているのと同じである。口ではそのように言いながら、心では、「自分が仏のわけがない」「取るに足らない存在である」と思っていたら、言っていることと思っていることに相違があることになる。信とは、自分が仏であるということを信じることであり、仏の自分を根本として生きることを決断することである。この信心を、広宣流布の信心という。反対語は自分中心(九界)の信心であり、これだと、名聞名利や保身に陥りやすい。学会でも、「広宣流布のために」との祈りは叶う可能性が高いと指導されるのは、まさにこのことである。
広宣流布の信心の一念こそが、日蓮大聖人の一念であり、師弟不二となる。そしてその一念は、三代会長の一念でもあり、創価の師弟に連なる事にもなる。この一念が合致した時に、師弟不二の覚醒(体感・体験)がもたらされる。

2、 求道心
一念における師弟不二の覚醒があれば、御書や先生の指導を正しく読めるようになる。正しく読めるとは、真意を汲み取ることができるようになるということである。こうなると、教条主義に陥ることはなくなる。アルベア様の投稿の中で「先生の魂を自身の魂に入れる事」とありますが、自己都合ではなく、先生の真意をインストール可能となり、正しく師の精神を受け継ぐことができる。師を求める心が求道心となり、御書の研鑽や先生の指導を学ぶことにも拍車がかかる。これ、求道心における師弟不二の覚醒である。自分中心の信心の一念であったならば、自己都合の師弟不二となり、真意を捻じ曲げ、結果的に師敵対へと転落していく恐れがある。それが大仏のグリグリのとこ様の講義の中に出てくる、内部における俗衆、道門増上慢の姿である。

3、 行動
師弟不二の覚醒の一念、求道心が備われば、師弟不二の覚醒の行動として、現実を変革することができるようになる。また、行動してこそ師弟不二の覚醒の完結がある。池田先生は御自身の夢について、「私の夢は戸田先生の夢を実現することである」と言われた。これ、師弟不二である。日蓮大聖人の御遺命は広宣流布であり、師弟不二の覚醒があってこそ、推進することができる。そして学会は師弟不二を教え、実践していく団体である。それを壊そうとする師敵対の幹部があらわれたら、どうするか。池田先生は「戦え」と指導されています。
以上、三つの観点から師弟不二の覚醒を論じてきましたが、つくづく師弟不二の覚醒の中に、正しい信心があり、日蓮大聖人の魂が躍動していると感じます。師敵対という現象は、師弟不二覚醒フラグであり、教義変更の一連の出来事は、その一環であると捉えています。今をおいて、師弟不二の覚醒はなく、最重要事項でありましょう。